母の思い出(母亲的回忆)とは?
中国語語学誌『聴く中国語』では日中異文化理解をテーマにしたコラムを連載しています。
今回は日本中国語検定協会理事長の内田慶市先生が執筆されたコラム、うっちーの中国語四方山話−異文化理解の観点からうっちーの中国語四方山話㉖ 母の思い出(母亲的回忆)とは? ~言葉の多義性~ をご紹介します。

同じ文字、同じ文なのに、読み方や捉え方ひとつでまったく違う意味になる——そんな不可思議な文章に触れたことはありますか?
以前にこのコーナーで中国語の“谜语”(なぞなぞ)について触れたことがありますね。
“李字去了木,念什么?”
(「李」という字から「木」を取ったら、何と読みますか?)
普通に考えると、「李」から「木」を取れば残るのは「子」なので、答えは「子」となります。
ところが、この問題にはもう一つの考え方があります。
「去(取り除く)」の対象を「木」だけでなく、去了木の「了」と「木」の二つと捉えることもできるのです。すると、「李」からそれらを取り除いた答えは「一」とも言えるわけです。
このように、一つの言葉や表現が複数の意味に解釈できる現象を中国語では“歧义”と言います。なぞなぞには、この“歧义”をうまく利用したものが多く見られます。

なぞなぞとは違いますが、次のようなフレーズも2つの意味に取れます。
1.母亲的回忆
2.三个医学院的学生
3.新建的工厂的大门
1は「母親(自身)の思い出」「(私の)母親の思い出」
2は「三人の医学部の学生」と「三つの医学部の学生」
3は「新しく立てられた/工場の正門」と「新しく建てられた工場/の正門」となりますね。

文章でも意味が変わってくる場合があります。例えば、次の文を見て下さい。
4.他走了一天了。
これは2つの意味があります。
1つは“他在路上走了整整一天。”つまり、「彼はまる一日歩きました」という意味です。
もう1つは、“他走了之后已经有一天时间了。” すなわち、「彼は行ってから(この場を離れる)もう1日の時間が経ちました」という意味です。
これは“走”に「歩く」と、「出かける(=“离开”=その場を離れる)」という2つの意味があることによります。
5.他走了一天了,还没有走到。
(彼はまるまる1日歩きましたが、まだ着いていません。)
6.你来晚了,他走了一天了。
(君は来るのが遅かったね、彼はもう出かけて1日になりますよ。)

文の両義はどこを強く読むかによっても生じます。
次の例を見てみましょう。
7. 三年级的同学都同意了。
8. 他明年才十七。
9. 老王拿了封信出来交给我。
このうち、9は簡単かも知れません。これでは、“出来”を軽く読むか強く読むかで意味が変わります。
まず「出来」の読み方による違いです。
“出来”を軽く読むと、
「手紙を取り出す → 私に渡す」という、2つの動作になります。
一方で、強く読むと、
「手紙を手に取る →(歩いて)出て来る → 私に渡す」と、3つの動作に分かれて解釈されます。
つまり、同じ文でも「どこを強く読むか」で、動作の区切りが変わるのです。
次に7と8の例ですが、これは少々難しく、ネイティブでないと分からないかもしれません。
7の文では、“都”を強く読むと
「三年生は全員賛成した」という意味になります。
逆に軽く読むと、
「三年生“でさえ”賛成した」というニュアンスになります。
8の文では、“明年”と“才”のどちらを強く読むかで意味が変わります。
“明年”を強く読むと、
「来年になっても、まだ16歳にすぎない」
“才”を強く読むと、
「来年になっても、まだ17歳にすぎない」
このように、中国語は“どこを強く読むか”によって、意味が微妙に変わることがあります。
一見同じ文でも、実は複数の読み方がある——なかなか奥深いですね。

また、文をどこで区切るかによっても意味が変わってくる場合があります。
10.他看见那个孩子非常高兴。
11. 他不知道我知道。
日本語にも、こうした曖昧さを楽しむ表現があります。いわゆる「弁慶読み(ぎなた読み)」と呼ばれるものです。
たとえば「ここではきものをぬいでください」。
「ここでは、着物を脱いでください」とも読めますし、
「ここで、履き物を脱いでください」とも読めます。
改めて考えると、言葉というのはずいぶんと奥深いものですね。

今回紹介したコラムは『聴く中国語』2026年5月号に掲載しております。
興味のある方ぜひこちらをチェックしてみてください。





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