中国語語学誌『聴く中国語』は毎月日本で活躍している中国の有名人をインタビューをさせていただいております。
今回のインタビュー相手は、京劇と絵画の芸術家であられる廬思先生です。先生の日本への留学や日本画の創作を始められた経緯、NHKで講師を務められたときのお話など、たくさんお話いただきました。一緒にうかがってみましょう。
――廬思先生、こんにちは!はじめに、どのようなきっかけで日本にいらっしゃり、日本画を始められたのか、さらに現在の芸術のお仕事を始められたいきさつなど、教えていただけますか?
私が日本に来た目的は非常に単純明快で、東京藝術大学で日本画を勉強するためでした。日本画は中国では岩彩画と言い、鉱物の顔料を使って創作する絵画を指します。私は大学の学部で学んだ際、中央美術学院で中国画を専攻していました。中国画でも鉱物の顔料を使用しますが、多くの技法がすでに失われてしまいました。大学3年生のとき、日本から招聘された教授が岩彩画の講座を行いましたが、それがとても面白かったのです。ですから卒業を前に次の進路を考えていたときに、日本に留学することを思いたったのです。
――多くの人が興味を感じるのは、なぜ京劇をやめて絵画芸術に方向転換されたのかということではないでしょうか。たくさんの方にそう聞かれたのではないですか?
そうそう、そうなんです。私が京劇から転向したのには、あの時代の背景に理由がありました。私は1992年卒業生でした。京劇は建国後、2回の大きな衝撃がありました。1回目は文化大革命のときです。当時、伝統劇は上演できなくなっていました。あの十年間に成長した観衆は、伝統的京劇とは何か分からなくなっていました。それが第1回目の非常に大きな衝撃です。
2回目の衝撃は、改革開放後、突然に入ってきた多くの海外文化でした。京劇に限らず、あらゆる伝統文化芸術は再び衝撃を受けることになりました。ですから1992年当時、大多数の若者からすれば、なぜ京劇を見なきゃいけないの? ハリウッド映画を見るに決まってる!聴くならテレサ・テンでしょ!(笑)という具合でした。
このように大きく変化する時代背景の中で私は卒業し、京劇院に入りました。その頃は、京劇の役者は公務員みたいなものした。ですが国は毎年大量の芸術家が必要なわけではなく、人材が足りなければまた入学生を増やせばよい、というようなものでした。ですから、学校も毎年新入生を募集しているわけではありませんでした。私は北京クラスですが、私の一代前の北京クラスは7年前です。もちろん私の上には先輩達がいます。たとえば貴州クラスや新疆クラス…ある地区で人材が育てられ、その地区に人材がいなくなったら別の地区で…このような感じです。私が京劇院に入った頃、7年前に卒業した先輩達がまだ舞台に立つための列に並んでいることに気がつきました。そこで当時の私は思いました。ああ、一体いつになったら私の番がくるんだろう?ひとりの役者に貴重な19歳、20歳が何回あるというのか?待っていたら中年になってしまい、その年になって舞台に上がって、歌えるの?そんな自分の姿を見たくないでしょう?
私はどうしようかと考えました。京劇学校で7年勉強しましたが、それは本科ではなく専門学校で、つまり高校卒業と同等なのです。私は大学に行かなければならないと思いました。でも京劇をしてきたのだから、時間と労力を費やすべきは舞台の上であって教室の中ではないのではないか。しかし今は舞台がない。ならば若いうちに学びたいこと、ずっと絵を描くのが好きだったから、徹底的に業種を変えて最初からやり直し、美術学院を受けようと決めたのです。
それから私は辞職して美術学院に入る前のクラスに入りました。現在のいわゆる予備校です。私は同時に八つのクラスに申込み、午前にひとつ、午後にひとつ、夜にひとつ、それぞれ3時間で1日9時間絵を描いていました。そして平日にひとつ、土曜日にひとつ、日曜日にまたひとつ、休む時間もありません。
1年です。そして幸か不幸か私は1回で合格しました。ですが入学してから苦労しました。なぜかというと美術学院にも付属中学・高校があり、私以外の人達は皆付属中学・高校を卒業していたので、誰もがすでに4年学んでいたのです。途中からこの道に入った上に、以前は別のことをしていたという門外漢の私は、朝から晩まで、ひとり皆の背中を追いかけて走っている気分でした。4年間走り続けたのです。
――追いついて、追い越したのですね!
いえいえ、そのときは追い越せませんでした。ようやく皆に追いつけると思ったころにはもう卒業という感じでした。私はまだ足りないと思い、もっと勉強したいと思いました。でもどうすればよいのか?更に上を目指して美術学院を受験しても、描くものに大した違いはありません。それなら次は新しいことを学んではどうか、考えに考えて、日本には中国と共通の部分も独特の部分もあるのだからと、日本に来ることにしたのです。
――日本画を学び始め、絵画創作に従事されてから今まで、すでに20年余りの時間が経っています。その間にご自身の創作スタイルやテーマには変化はあったのでしょうか?
非常に大きな変化がありました。まずは創作スタイルにおいては、初期はずっと中国の伝統絵画と美術学院の先生方の影響を受け、自分自身のスタイルというのがあまり表に出ていませんでした。ですが日本に来てから、私は全く異なる絵画スタイルに出会いました。その後私はヨーロッパの主要な美術館や博物館に行き多くの西洋芸術の大家の作品を見ました。そして徐々に自分自身の創作スタイルを形成していったのです。
また題材においては、私はずっと花鳥を主題にしていました。しかし娘を出産してから、私は「私と娘」シリーズを描き始めました。これは娘の成長記録でもあります。ですが娘が成長するにつれ、登場するのは私と娘の2人だけではなくなり、娘との生活とは違う生活の側面を描くことが多くなりました。新しいシリーズの作品は「豆蔻年華」といって、娘が小学校を卒業した記念に制作しました。絵の中では娘が袴を穿いて卒業式に参加しています。様々な模様と装飾には特別な寓意がこめられています。母親の子どもの未来への祝福と期待を表現しています。この作品は東京都美術館に展示され体育日本新聞賞をいただきました。
――おめでとうございます!創作活動は大変かと思いますが、創作の上で困難や難関に遭遇したことはありましたか。そのようなときはどのように乗り越えられたのでしょうか。
もちろん困難な時期もありました。私は困難に遭ったときこそ進歩するときだと思っています。なぜならそのような時期には現在の創作に不満を感じ、新しい表現方式が見つからなかったり確立されていなかったりするために苦悩している時期だからです。そのようなときはただ試行錯誤を繰り返し、修正を重ね、描けなくなったら少し別のことをしても構いません。気分を変えて頭も入れ替えるのです。全然異なるものからインスピレーションを受けるかもしれません。実は絵画の初級段階で一生懸命打ち込むのが技法だとすると、後々必死で取り組むのは見聞や思想なのです。
――門外漢として、花鳥題材のときにはまず色彩が非常に柔和で美しく、筆遣いが細やかで花鳥がとても生き生きしていると感じました。ですがそれ以上のものは見つけられませんでした。私たちのような門外漢が絵画を鑑賞するのに何かアドバイスはありますか?
私は誰にでも独自の審美眼があると思っています。絵画は人と同じように、初めてでも一目惚れすることもあれば、旧友に会ったかのように感じることもあるに違いありません。1枚の絵に出会い、好きだと感じたら、もっと知りたいと思うでしょうし、画家の物語や経歴、どのような材料・技法を使っているのか、知りたくなるでしょう。もし古い作品なら当時の歴史や同時代の画家が興味を持っていたことが知りたくなる。現代の作品ならその画家のもっと多くの作品に期待するでしょう。なんと言ったらいいか、自分が本当に好きな作品に出会うと、人と作品の間に共鳴が生まれるのです。
――日本画と中国画の最大の違いは何でしょうか。
材質が異なりますね。日本画は鉱物の顔料や金属を多く使います。天然の岩石から細かく削り取った粉末を使うので、不透明で反射光がきらめき、画面は華麗かつ重厚になります。中国画は植物性の顔料をより多く使います。植物の液体からとったものなので、やや透明です。画面の効果は変化に富み垢抜けています。
――また、僭越ながらおうかがいしますが、制作した中で最も満足している作品はどの作品ですか?
それは、私は中年になったとはいえ、ひとりの画家としてはまだ成長段階です。いま満足しても、何年も過ぎて私の経験が豊富になれば、まだ足りないと思い手を加えるに違いありません。ですが、間違いなく数枚の作品は、現在の私から見ても満足できるものです。たとえば2008年に初めて日本美術院秋季院展で入選した「皐月交響曲」や「私と娘」シリーズの「七五三」などです。
――最近は日中学院で中国の水墨画画法を教えられているとうかがいました。中国画の特徴について少しお話いただけますか?
水墨画は岩彩画(日本画)と違い技法や材料の要求が非常に厳格というわけではありません。水墨画は水と墨の遊びのような所があるのです。墨はただ黒いというのではなく、私たちは「墨は五色に分けられる」と言っています。ただ墨に水を加えるのでも、色にあふれた表現ができるのです。皆さんも機会があればぜひ体験してみてください。
――NHKの中国語番組やラジオで何年もゲストを務められましたが、当時の興味深いお話をお聞かせいただけますか?
ある年に呉志剛先生がジャイアントパンダに扮したのを覚えています。それも毎週出てくるんです。番組はわざわざ先生サイズのパンダの衣装を作ったのですが、結局ジャイアントパンダを着て録画すると声がこもってしまいました。毎回先に録画して後から吹き込みをしたのでよかったのですが。ジャイアントパンダの衣装はとても真にせまっていて、私たちも視聴者も特に好きでした。でも空気も通らなかったので、毎回暑くて汗だくになって、先生は本当に大変そうでした。
――お話いただきありがとうございました!最後に、読者の皆さんに中国語学習のアドバイスをいただけますか?
外国語を学ぶには環境が非常に重要です。昔と比べ今は条件がとてもよくなっています。テレビでは中国映画やドラマをやっていますし。ですが、やはりもっと話す機会を見つけなければなりません。日本人は割と内向的ですから、そこはもっと開放的にしなければなりません。
また、多くの学習者は中級以上になると突然進歩が難しくなります。もし言語環境がないのであれば、中級以降は後戻りせずにいること自体が進歩だと私は思います。引き続き頑張ってくださいね!
廬思先生の中国語インタビューを中国語で聴く&読むなら、聴く中国語2023年2月号をご覧ください!
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