中国語語学誌『聴く中国語』では中国語学習における大切なポイントをご紹介しています。
今回は日中通訳・翻訳者、中国語講師である七海和子先生が執筆された、「どう訳す?どこまで訳す?」というテーマのコラムをご紹介します。
執筆者:七海和子先生
日中通訳・翻訳者。中国語講師。自動車・物流・エネルギー・通信・IT・ゲーム関連・医療・文化交流などの通訳多数。1990年から1992年に北京師範大学に留学。中国で業務経験あり。2015年より大手通訳学校の講師を担当。
皆さん、こんにちは。七海和子です。
これは私が通訳となって間もない頃の話です。ある時、ある企業の中国人研修生への通訳の仕事を受けました。だいぶ前のことなので、細かいことの記憶は朧気ですが、中国からの研修生は少なくとも十数名はいたと思います。年齢層は、20代後半から30代後半くらい、比較的若い人たちでした。研修生に選ばれた人たちですので、中国の工場である程度経験を積んだ、将来を担う人材だったのでしょう。その日は座学ではなく、工場内での技術研修でした。
どうしよう!そのまま訳す?
指導担当はかなり年配の、現場何十年という大ベテラン。一目見て「現場の生き字引」といった雰囲気の方でした。
最初のうちは仕事の進め方や、設備の管理などについて、普通に話していらっしゃいましたが、だんだん不機嫌になってきました。その方(以下「指導者」と書きます)の年齢を考えると、おそらく「技は習うより目で盗め」といった時代にお仕事をされてきたのでしょう。実際、「私の若いころは先輩の後ろに張り付いて、そのやり方を目に焼き付けた」的な発言が随所に見られました。指導者にとってみれば、研修生の熱意というか、積極性に満足がいかなかったのかもしれません。
そのうちに、指導者による設備をメンテナンスする模範実技が行われました。今までの発言から、きっと研修生にもっと近寄って、しっかり手元を見て欲しいのだろうと思い、私はかなり横に場所を移し(通訳者は発言者の近くで話すので)、「近くにどうぞ」と身振りで研修生たちに伝えました。でも、研修生たちはあまり近寄っては来ません。そこで、指導者の不機嫌さが最高潮に達したのです。
「だからお前たちはダメなんだよ!まったく!全然姿勢がなってないよ!学ぼうとしていないじゃないか!」(以下もっと続く)。口調もかなり激しく、「こ、これは訳せない…」という言葉も随所に入っていました。
メッセージを読み取る?
通訳者は訳出時に必ず一人称を使います。それは発話者に成り代わって、話しているからです。通訳者は発話者が言っていること以外のことを勝手に話すことは許されないのです。通訳者は「足さない」「引かない」「変えない」が大原則。
指導者の畳みかけるような言葉が終わりました。訳さなければいけません。さあ、どうする!?いろいろな思いが一瞬のうちに頭の中を駆け巡りました。私の答えは、ここは技術的な説明ではないので、一語一句正確に訳すのではなく、「言葉に込められたメッセージを読み取る」ほうに切り替えて訳そう!でした。当時の訳を正確には再現できませんが、「もっと積極的に学ばないとせっかく日本まで来ているのに何も身に付かないだろう!手元をしっかり見てきちんと技術を学んで帰るんだ!そんな遠いところで一体何が見えるんだ?!(以下もっと続く)」とこんな感じで訳出しました。指導者の口調がかなり激しかったので、私もそれなりの雰囲気を出しながら…。訳したらマズイ言葉は訳しませんでしたし、その他にもマイルドな表現にしたところが多々ありました。一字一句を正確には訳しませんでしたが、指導者が怒ったのは研修生のため、会社のためだったと思うので、その精神は伝えられたと思います。
ドラマだったら、この訳を聞いたみんなが一気にやる気を出して…のような展開になるのでしょうが、全くそんなこともなく、緊張した雰囲気のまま、でも研修生は少し近寄って見るようになって、その日の研修は終わりました。
通訳者はコミュニケーションの仲介者
この通訳の件は、今でもふっと思い出すことがあります。「正確でわかりやすい訳出」以外に今までにないタイプのコミュニケーションの摩擦で悩んだので、記憶に残っているのでしょう。
普段は技術的なものや会議などの通訳が多いので、あの時に感じた「これをそのまま訳して大丈夫だろうか」と考えることはほぼありません。でも、通訳者が目指す「正確でわかりやすい訳出」とは、「話し手の思いをそのまま端折らずに、正確でわかりやすい言葉で聴き手に伝える」ということなので、通訳者はただ言葉を訳すだけではなく、コミュニケーションの仲介者の役割も担っているのです。だからこそ、難しいことも山ほどあれど、通訳はおもしろい、といつも感じています。
今回は私の思い出話でした。
今回紹介した七海先生のコラムは『聴く中国語』2023年6月号に掲載しております。
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