インタビュー!ドキュメンタリー監督・張麗玲さん

インタビュー

中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。

今回は、長年日本で活躍する著名なドキュメンタリー監督の張麗玲さんにインタビュー。90年代の中国人留学生の生活を映し出した張さんのドキュメンタリー作品は多くの人に感動を与えました。元女優でもある張さんの多彩な経歴についてお伺いしました!

 『聴く中国語』の学習者の皆さん、こんにちは。株式会社大富(中国の視聴者の皆さんには大富テレビとして知られています)の代表取締役、張麗玲です。このように皆さんと接し、交流する機会を頂けて、大変嬉しく思っております。皆さんが日々中国語を楽しく学び、上達され、中国語を学びながら中国や中国文化についてさらに理解し、日中間の民間友好交流の使者となられることを願っております。

 それから、どんな仕事をしたいのかをずっと考えていました。ある日、映写隊がやって来て、大きなホールで映画を上映し、私はそこで初めて映画を見たんです。それがとても面白くて、とても感動し、胸を打たれました。それから、「ああ、こういう人の心を動かせるようなことをすべきじゃないか」と思ったのです。

 高校生の時にチャンスがやってきました。ドラマ『紅楼夢』が若い俳優を全国で募集しており、私が選ばれました。ちょうど自分がやりたいと思っていた、人の心を動かすことのできる芸術に携わる仕事だと思い、この業界に入りました。

 私は『紅楼夢』の「嬌杏」を演じました。曹雪芹(『紅楼夢』の作者)のすごいところは、それぞれの登場人物に寓意を含んだ名前をつけていることです。例えば、嬌杏という名前は「侥幸(偶然に得る幸運)」と同じ音です。ある文章には、このドラマの多くの出演者がその演じた役と同じような運命を辿ると書かれていました。例えば、林黛玉を演じた陳暁旭さんは若くして亡くなりました。最も幸運な人物は「嬌杏」だと言われています。たしかに、私は今も毎日寝る時間もないくらい忙しいですが、とても充実感がありますから(運が良かったと思います)。

 当時、国内ではドラマの仕事を次から次へと引き受けていましたが、私は俳優になるために俳優をやるのではなく、人の心を豊かにする芸術家になりたかったんです。この分野にいる人たちは皆尊敬に値する、心がとても純粋な人たちだと思っていましたが、実際にはそうではありませんでした。そういう人もいましたが、多くはありませんでした。それに、俳優という仕事は私にはまったく合わないと感じました。人に屈することができない人間だからです。芸術自体は私がやりたいことでしたし、この仕事を心から大切に思っていましたが、自分が本当にやりたいことができないなら、しばらく離れる方が良いと思ったのです。

 

 もう一つの理由は、コネの問題など、あれこれに不満を感じたからです。当時北京ではコネがないとかなり生きづらいという感じでした。不公平ですが、どうにもならない現実でした。そこで私は、海外ならみんな平等で、同じスタートラインに立っているのだから、能力や価値があるかどうかは、そのような完全に平等な条件で初めて競い合うことができると考えたのです。ですので、海外に行くことは私にとって非常に魅力的に感じられました。

 それに当時、海外に行かなければ時代遅れになってしまうような気がしたのです。みんなが海外に出ていく時代でしたし、国内で見聞きすることや学ぶことには限界があると感じていたため、外に出て自分の目で見てみる必要があると思いました。さまざまな要因が重なって、私は留学することになったのです。

 もちろん、たくさんありましたよ。見た目では日本人と中国人は区別がつかなく、今の世界で漢字を使っているのは中国と日本くらいですから、お互いに「理解できるはずだ」と思ってしまいますが、もしある事について理解できなかったり、コミュニケーションが取れなかったりすれば、「わざとやっている」「嫌がらせをしている」と(互いに誤解し)、対立してしまうのです。

何十年も経った今でも、日本と中国では、価値観、美意識、生死観など、異なる部分があると感じます。

 例えば価値観の違いです。私が中国で放送したドキュメンタリーは大きな反響を呼び、講演や交流会、インタビューの依頼がたくさん来ましたが、決まって聞かれた質問は「成功した人を撮影したことがありますか?」というものでした。日本でも同様に講演会に招かれましたが、日本人から聞かれたのは「失敗した人を撮影したことがありますか?」という質問でした。価値観がこんなに違うんです。驚きませんか?

 私が撮影した方々たちは、皆、努力を重ねて自分の小さな夢を実現した人たちです。たとえその夢が小さな花屋を開くことであっても、努力を重ね、店を持つことができたというように。しかし、中国では、成功した人とは結果を出した人だと考えられています。日本の皆さんは「どうして撮影した人たちはみんな成功しているのだろう?」と思うでしょう。彼らは自分の夢に向かって努力し、最後に夢を叶えたのです。例えば、ある中国人は慶應大学に合格し、卒業後は三井物産のような一流企業に就職しました。日本の皆さんからすれば、日本人にとっても難しいことなのに、彼らはまったく何も無い状況から、ゼロから始めてこのような事を成し遂げたなんて、これ以上の成功はないじゃないか、と感じるわけです。

 ただ、同じものもあります。それは「心」だと思います。私のドキュメンタリーが日本で放送され、視聴率が最も高かった時には20%を超えたこともありました。放送開始直後は、こんな面白みのない外国人のドキュメンタリーをゴールデンタイムに放送するなんて、と不思議がられました。しかし今でもDVDを欲しがる人がいますし、しかもほとんどが日本人なんです。心の部分では、日本と中国の人々は同じなんだと思います。ですから、真心を持って誠実に向き合えば、多くの事は解決できない事ではないと感じています。

 正直なところ、私は意図的に転身したわけではありません。ただ、自分がどうしてもやらなければならないと思うことに出会ったんです。このドキュメンタリーがまさにそうでした。最初は、必ずしもドキュメンタリーという形式にこだわっていたわけでもありません。私はそれまでドキュメンタリーを作ったことがなかったですし。ただ単にその出来事を記録したいと思っていただけでした。

 私自身も含めて、私たちの世代は国内にいる時、いくつかの事柄に対して失望していて、「中国はもうダメなんじゃないか」と感じることが多かったんです。しかし、国を出て初めて、中国人の精神が海外で大きな輝きを放っていることに気付きました。勤勉さ、勇敢さ、努力する姿勢、そして愛国心。国内にいると、国のことをあまり考えることはありませんでした。

 中国(改革開放政策以降)の、最初の資本金の蓄積は、当時海外に出ていった留学生たちと直接的な関係があると思います。私の周りの留学生たちは、当時本当に1円も無駄にせず、すべてを中国に送っていたんです。彼らは平凡な人たちで、「国家のため」「民族のため」といった大きな理想を掲げていたわけではありませんでしたが、彼らが国にもたらした貢献は、他の時代の中国人にも劣らないと思います。数々の感動的な出来事がありました。だから私はこれを記録して、歴史に残したいと思ったんです。放送されるかどうかは関係なく、真実の記録として残すことに意味があると思いました。

 それで、私は何もかもを犠牲にする覚悟を決めました。会社をクビになっても構わないし、借金を抱えて後半生を返済に費やすことになっても、それだけの価値があると感じました。最初は放送されることや、これほど大きな反響があることになるなんて考えていませんでした。これはただ結果に過ぎません。

 当時は、人に手伝ってもらいながら、留学生として日本に来た人たちを撮影対象としていました。協力してくれる限り、私は(どこまでも)付いていって撮影しました。その甲斐あって、315人ほどをインタビューすることができました。数年経っても変わらない人もいれば、撮影期間中に亡くなったり帰国したりして、行方が分からなくなる人もいました。

 ですから、例えば今日誰かにインタビューしたら、その方に「あなたの周りに撮影にふさわしい人はいませんか?」と聞くのです。そうすると必ず一人か二人は思い当たる人がいるでしょう。紹介していただいて、翌日に会いに行くのです。このように雪だるま式にどんどん(インタビュー対象者を)増やしていき、数百人になりました。また、取材を受けない代わりに、運転の手伝いや、カメラを運ぶのを手伝ってくれた方など、色々な方に出会いました。最終的にはかなり大きな撮影チームになりました。多くの人がボランティアでした。

 当時日本に来た人がすべて良い運命を持っているわけではなく、ビザが切れて不法滞在になった人もいたり、夫婦で来たのに、結局別れてしまった人たちもいたりします。起こる出来事はさまざまで、その物語性はドラマの台本を遥かに超えています。リアルでありありとしていて、想像もつかないようなものです。私はそれをカメラに収めるだけで、何も手を加えなくても十分に力強いと感じました。それを記録したいという強い意欲があったので、諦めることはありませんでした。

 もちろん、困難も非常に多かったです。私は友人に10万ドルを借りて、それで足りると思っていました。交通費や食費に使うだけではそんなにお金はかからないだろうし、撮影は1年で終わると思っていました。しかし、実際には1年経ってようやくスタートラインに立てたのでした。

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張麗玲

1967年中国・浙江省生まれ。16歳で女優デビュー。ドラマ 『紅楼夢』 87年版に出演。ドラマ訓斎 志異『魯公女』等に主演。1989年、22歳の時に留学生として来日。東京学芸大学大学院修了後、大倉商事に入社。1998年、大富仕表に就任。「小さな留学生」と「泣きながら生きて」両シリーズは放医文化基主賞を 受賞。99年以降、日中両国でテレビ放映され、高視芸率を記録するなど 反誓を呼んだ。2012年、ドキュメンタリーの貸展に傑出した貢献をした中国内外の人物に贈られる第2回中国ドキュメンタリー学院賞「特別貢猷賞」を受賞

今回のインタビューの続きは月刊中国語学習誌『聴く中国語』2025年1月号に掲載されています。さらに詳しくチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2025年1月号をご覧ください。

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