中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。
今回は、フリーランスライターの吉井忍さんにインタビュー。先生の豊富なご経験と中国語での創作を始めることになったきっかけについて、お話を伺ってみました!
――吉井先生、こんにちは。先生は早くからお一人で生活され、遠方まで探索の旅にも行かれていたそうですね。まずはご自身のこれまでの歩みについてお話しいただけますか?
実は子どもの頃から海外への憧れが強かったんです。高校時代の夢は国連で働くことでした。そのため、この分野の教育に力を入れている国際基督教大学に進学しました。大学1年生の時からその目標に向かって努力していましたが、すぐに、国際機関のような所の人間関係は自分に合わないのではないかという予感がしました。国際機関といってもやはり複雑で、理想や夢があればそれで世界が平和になる、というわけにはいかないことを感じたんです。私の性格にはどうも向いていないのではないかと思い、この夢を諦めました。喪失感がありましたね。
そんな時、ある友人が大学2年生の時に中国に行って、帰国するやいなや私に「中国ってどうしてこんなに面白いんだ」、「中国人ってなんて面白いんだ」と話してきたんです。私もそれを聞いて、「中国って近い国なのに、私は全然知らないんだな」と思いました。そして大学2、3年生の時に、中国政府が日本の学生に支給する奨学金の話を聞き、それに応募して、試験と面接を経て1年間の留学の機会を得たんです。それで成都に行きました。
――先生のご出身はどちらでしょうか?
私は香港で生まれましたが、両親は日本人です。当時、父は仕事で香港に派遣されており、母も同行していて、私は香港で生まれました。私たち家族は香港に3年ほど住んでいましたが、私は幼い頃に香港を離れたので、香港での記憶はほとんどありません。

――先生の育った環境は、先生ご自身の性格やその後の人生における選択にどのような影響を与えましたか?
おそらく父の影響が大きいと思います。父は物事の良い面をよく見る人で、仕事でよく海外に行っていましたが、毎回たくさんのお土産を持って帰ってきてくれました。父はいつも夜遅くに帰って、朝早く家を出るので、私が父の姿を見るのは少なかったのですが、朝起きると、よく私のベッドのそばに沢山の小さなプレゼントが置いてあったんです。開けてみると、「これは何処どこの」、「あれは何処どこの」というように(色々な国のものが入っていて)。このようなことを通して、私は外の世界がとても面白いものだと感じていました。
――先ほど、先生が中国に興味を持ったきっかけはご友人だと仰っていましたが、他に何かきっかけはありましたか?先生はいつから中国語を学び始められたのでしょうか?
中国に留学することを決めてから中国語を学び始めました。成都に着いた時、ほとんど中国語を話せませんでした。成都での1年間で、口喧嘩したり、値切ったり、簡単な会話や買い物はできるようになりましたが、深い交流はあまりできませんでした。1年ではそんなものだと思います。でも、私の中国への全体的な印象はとても良くて、ずっと心に残っていて。帰国後はいつも「(中国に)帰りたい」と思いました。ですので、この成都での1年間は私にとって、とても大きな影響があり、決定的なものだったと思います。


――では先生はどのようにして作家になられたのでしょうか?また、どうして創作に中国語を用いることにしたのでしょうか?
当時、私はずっと自分が何をしたいのか分かりませんでした。大学卒業後も、何をしたらいいか分からなくて、いわゆる就職活動もせず、1、2社応募してみましたが、面白みを感じず、結局行くのを辞めました。ですから、卒業時には仕事がなく、大学時代にやっていたアルバイトを続け、中国料理店の店員をしていました。半年ほど経ち、1999年9月に台湾で大地震(9・21南投地震)が発生したと聞いて、私は現地に行き、2週間ボランティアとして活動しました。2週間後、台北に戻ると、台湾の生活がとても心地よく、皆中国語を話すので、自分の中国語レベルを上げるのにも良い環境だと感じました。それで、台湾に留まって仕事を探すことに決めました。最初に就いた仕事は社長の秘書で、2年間働きました。その後もいろいろな仕事をしました。例えば、日本語教師、雑誌の広告営業、翻訳や通訳など、できることは何でもやりました。
最終的に台北で日本のメディア会社の仕事を見つけました。その会社は台北に支社があり、私はそこで編集を務め、翻訳もしました。その会社は主に海外の日本企業の従業員向けに、彼らの仕事に関連する経済情報などを提供するサービスを行っていました。そのため、私たちの仕事は、現地の経済関連のニュースを集め、それを日本語の記事にまとめ、毎日小冊子にまとめることでした。

当時、仕事は本当に多かったです。毎朝、大体8時過ぎに出社し、それぞれの机の上には地元の新聞が7、8部ほど積まれていました。当時、インターネット上の情報は少なかったので、私たちは30分ほどで7、8部の新聞を全部読み、今日取り上げる内容として、内容が面白く、読者が興味を持ちそうなものを選びました。30分後、10分ほどの会議があり、そこで各自自分が読んだ内容を発表します。編集長はホワイトボードに私たちが選んだニュースをすべて書き出し、「あなたは今日、これとこれを書いて。トップニュースはあなたが担当して。2000字、必ず書き終わるように…」というような具合で指示するのです。
それから、私たちは資料収集を行い、記事を切り抜いて紙に貼り付け、それから執筆を始めます。翻訳しながら編集を行うわけです。同じ事柄が報道されることがありますが、各メディアの(報道の)角度や注目する点は異なります。私たちはそのような違う書き方をされた同じ事柄の内容を集めて、編集していくのですが、仕事量は本当に多かったです。毎日午後3、4時までに文書を仕上げなければならず、毎日担当者がそれらを小冊子にまとめ、夜10、11時に、ファックスで各社に送るのです。毎日このような感じで、しょっちゅう残業していました。
その仕事は台北で1年余り、フィリピンで2年、北京で1年ほど続けました。この期間、私の読解力や、記事を読んで重要なポイントを抽出する能力が鍛えられたかもしれません。また、論理的に文章を書く方法も学ぶことができ、これらは作家になるにあたって、非常に良い訓練だったと思います。今でもその会社にはとても感謝しています。

――その後どのように書く内容を思いついたのでしょうか?
その仕事は2008年まで続けましたが、中国人と結婚し、結婚と同時にその仕事を辞めました。その後、私は専業主婦となり、上海に住んでいましたが、専業主婦はとても退屈に感じ、やはり何かやりたいと思いました。その頃、上海には『外灘画報』や『東方早報』などのいくつかの紙媒体がありました。今は廃刊になってしまいましたが。私はこれらのメディアに、日本に関する簡単な記事、社会ニュースや村上春樹の新作などに関することなどを寄稿しました。これが、私が中国語で記事を書く最初の段階だったと思います。
その後、私は日本の作家や建築家などをインタビューするようになり、3、4年ほどその仕事をしました。それから、前の夫と一緒に北京に引っ越しました。当時、お金がなかったので、節約のために、私は彼にお弁当を作るようになりました。お金を使わせないように(笑)。彼がお弁当を会社に持って行くと、同僚たちは日本人が作るお弁当に興味を持ったようで、どうやって作るのか知りたいと言われることもあったので、私はレシピを書いて渡したのです。それから、私はこのコンテンツで何か書けないかと思い、豆瓣(Douban)にお弁当の写真と各料理のレシピ、そのお弁当にまつわる簡単な思い出を一緒に書いて、投稿することにしました。このようにして、私は中国語での執筆活動が始まったのです。
当時、中国の書籍市場ではちょうど電子書籍が出始めたころだったので、私はそのコンテンツを電子書籍にして、ウェブサイトで販売しました。売れ行きはまあまあ良かったです。それからそのコンテンツをいくつかの出版社にお見せしたところ、ある出版社が興味を持ってくれ、2014年に『四季便当』という本が出版されることになりました。

フリーランスライター
吉井 忍
国際基督教大学・教養学部国際関係学科卒業。台北、マニラ、上海、北京などアジア諸地域で記者として勤務。2008年より中国語での執筆活動を開始。
主な著書に『四季便当(四季の弁当)』(2014年、広西師範大学出版社)、『東京本屋』(2016年、上海人民出版社)『東京八平米』(2023年、上海三聯書店)などがある。
今回のインタビューの続きは月刊中国語学習誌『聴く中国語』2025年3月号に掲載されています。さらに詳しくチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2025年3月号をご覧ください。

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