インタビュー!日中精武会連盟会長・日中武術交流協会会長、常松勝さん

インタビュー

中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。

今回は日中精武会連盟会長・日中武術交流協会会長、常松勝さんにインタビューしました。先生の武術についてのご理解と残留孤児として中国で武術を習う経験、そして日本で武術文化を広げるという伝説的な人生物語を伺ってみましょう。

 私は1944年旧暦の12月、西暦では1945年の2月、日本が敗戦した時に生まれました。当時、父親はシベリアに連行され、母親1人で5人の子供たちを連れていて、私は末っ子でした。生活はとても苦しかったのでしょう。私は养父に預けられ、中国の養父母に引き取られました。その後、生母と兄弟は日本に戻り、私は中国で生活しました。子供の頃、「日本の子供」、「小日本」と呼ばれました。私がいじめられるのを心配した养父は、私に山東の武術を教えましたが、私が学びたがらなかったため、仕方なく私を正式な武館に送ったのです。(そこで高名な秘宗拳大師、趙鳳亭老師に師事する)

 18歳以降は、第二の師匠、通背拳を教える修剣痴の一番弟子(高名な通背拳大師・于少亭老師)に師事しました。秘宗拳は、霍元甲によって名が知られるあの拳法です。霍元甲の映画を観たことを見たことがありますか。通背拳は三つの手を打つことが求められ、動きは比較的速いです。修剣痴老師は国民党の少将(武術教官)であり、彼の一番弟子は于少亭老師で、私は于少亭老師のもとで、72年に先生が亡くなるまで学びました。9年間学びましたね。

 北方の拳術は基本的に太極拳、形意拳、八卦掌、螳螂拳、秘宗拳、通背拳、そして翻子拳などがあります。南方の拳術は、映画などで見られるような、咏春拳、蔡李佛拳、南派拳などがあります。 北方の拳法は、足技を得意としており、足技が多いです。南方の拳法は手技が多く、力強いものです。大まかにこのように分類されます。

 

 日中平和友好条約が結ばれ、私は自分が日本人であると分かっていたので、実の親を見つけたいと思いました。ちょうどその時、大連にいた日本人の先生が、日本に帰省するところでした。彼女は岡山県出身で、私の母も岡山県出身でした。彼女が岡山に戻った後、NHKの放送局が彼女のもとへ取材に来たのです。取材が終わると、私の母はすぐに彼女を訪ね、「私の息子を探してくれ」と言い、私に関する情報を渡しました。それから、彼女は中国に戻り、私を見つけたのです。その後、私は実の親と手紙でやりとりをするようになりました。

1978年、私は娘を連れて初めて帰省しました。当時、日本に留まるか中国に戻るかを選ぶことができました。当時、母はまだ健在でしたが、「もう年だから、私にここに残ってほしい」と考えていました。私は母の意向に従いました。その時、私は家を買おうと思ったのですが、まだ言葉を話せなったため、家の絵を描いて、「(家が)欲しい」と言いました。厚生省の人も私が家を買おうとしていることを理解し、家を売ってくれました。家を買った後、母は私のことを心配していたので、娘を連れ、母と3人で2年余り一緒に生活しました。生活が落ち着いてから今度は妻を連れてきました。


 仕事を探すのは大変でした。最初は飲食店で3ヶ月間働きましたが、本当に耐えられませんでした。朝10時に出勤、夜11時に退勤し、休みは2回しかなく、(1か月で)10万円しか稼げませんでした。外には8時間働いて13万円稼いでいる人がいるのを見て、「これはいい。8時間働いてもそれほど疲れないだろう」と思い、いくつかの工場を探しました。最終的には本田の工場を見つけ、そこで10年間働きました。ずっとバイクの金型を作っていましたね。

 私には警察のおじさんがいて、父とも関係があり、貿易をしている人でした。彼は「少しお金をやるから、働いてばかりでなく日本語を勉強したらどうだ」と言いました。それからは日本語を学びながら働き、中国との貿易関係の仕事をしました。社長が亡くなった後、私は日東貿易株式会社を設立し、5年間貿易を行いました。その後、20年ほど仕事(研究生の派遣など)をしました。

 実際には余暇の時間を使って武術を教えています。1982年以降、武術交流協会を設立しました。当時、私が(日本に)来てから、NHKで2回「母と息子」という番組が放送されました。放映後、多くの方がテレビや新聞でそれを見たのです。私は日本に戻るのが比較的早かったので、毎日新聞や読売新聞にも取り上げられ、それが大きな宣伝となったのです。新聞を見て私に拳法を学びたいと思った学生もいました。当時私は写真を持っていなかったので、武術の写真を毎日新聞に載せたのです。彼はその私の写真を見て、尋ねてきたのです。

 当時、私は蒲田に住んでいて、そこに「常松」という姓の人が二人しかいなかったので、すぐに私を尋ね当てられたのです。その後、彼に「拳法を教わりたい」と言われ、私は「いいですよ、お金はいらないよ」と答え、一緒に河辺へ行きました。日曜日になると私は彼に拳法を教え、このようにしてずいぶん長い時間教えましたね。

 (その後)彼が友達を2人連れてくると言うので、私は「いいよ、3人に教えるよ」と言いました。彼らはみんな中国語を話せました。なぜ私は彼らに教えたいと思ったかというと、それは彼らが中国語を話せ、私に日本語を教えることができるからです。半年以上経って、彼から「先生、クラスを作ることはできませんか」と言われました。私は「私は日本語もわからないのに、どうやって教えるんだ」と答えると、彼は「私たち3人が通訳できますから」と言うのです。このようにして道場を設立し、今日まで続けています。こんな感じです。

私の考えですが、中国武術も日本武術も、基本的には『精気神』を鍛錬し、幼い頃から苦労をいとわず努力する精神と、毅力記憶力を培うことが大切だと思います。これは私が感じたことです。もしもこの精神がなければ、日本に来ることも難しかったかもしれませんね。



常松勝

1945年、中国・大連生まれ。終戦後、中国残留孤児となる。

1952年、7歳の時に高名な秘宗拳大師・趙鳳亭のもとで、秘宗拳、螳螂拳、太極拳を学ぶ。

1963年、「燕北大侠」修剣痴老師の一番弟子である于少亭に拝師し、通背拳を学ぶ。

1978年7月、日本に帰国。

1982年、日中武術交流協会を設立。長年にわたり、中国武術の普及と教育に従事し、指導した学生は一万を超える。

1995年以降、幾度も中日武術交流大会を主催し、日中友好に重要な貢献を果たす。

現在、日中精武会連盟会長や日中武術交流協会会長などを務める。

今回のインタビューの続きは月刊中国語学習誌『聴く中国語』2024年3月号に掲載されています。さらに詳しくチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2024年3月号をご覧ください。

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