インタビュー!落語家 三遊亭楽生師匠

インタビュー

中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。

今回のインタビュー相手は、中国留学経験を持つ落語家の三遊亭楽生さんです。中国での興味深い経験を共有していただきました。

――三遊亭楽生師匠、こんにちは。「聴く中国語」の読者の皆さんにご挨拶を一言いただけますでしょうか?

 三遊亭楽生と申します。『聴く中国語』の読者の皆さん、今回はよろしくお願い致します。

 

――どのようにして落語の道を歩み始めたのでしょうか?また、中国語の勉強を始められたきっかけは何でしょうか?

 まず落語の道なんですが、19歳の時だったんです、僕入門したのが。高校卒業して、もともとは大学に行こうと思っていたんですが、見事に滑りまして、どうしようかなと思ったときに、やっぱり話す力って必要だなと。去年の9月30日に、うちの師匠が亡くなりましたけれども、当時の楽太郎の弟子になりたいということで、この世界に入ってきました。

 

 一人のおじいさんが舞台の上で座布団の上に座って話し始める。お客さんが五百人、千人が笑ったり泣いたりして、一人で40分50分ずっと話し続けるだけですよ。 これはすごく面白い芸能だなという思いがあって。25年経ちますけれど、あっという間です。まだ何かを成し遂げたということはないですけれど、すごく楽しくお稽古をしています。

 

 中国語の勉強ですが、これも偶然というかたまたまでした。 高校卒業して一年浪人をして、この世界に入ってきたんですが、一回大学に行きたいって思いがまだあったので、他の言語をしゃべれたらいろんな国でその言語で旅行ができたりしたら楽しいなという思いがあって。とにかく貯金をして、150万円貯めたのかな。これだと欧米とかは行けないですよね。文化があって、食事がおいしくて、あと150万円で一年過ごせる国ってどこだろうと考えたときに、タイ、韓国、中国があったんです。当時お客さんとか知り合いに話をしてどこがいいですかねって言ったら、十人が十人、みんな「中国」って言いましたね。「何でですか?」って聞いたら、「中国っていうのは、日本の歴史の100年150年ぐらい詰まっている」。高度成長であったりとか、バブル期であったりとか、逆に貧しい地域があったりだとか、電気が通ってない町があったりだとかっていうところ。中国語喋れたら、いろんなところに行って、色んな経験ができるって言われて。これからも間違いなく中国の時代だっていう。2006年か2007年、当時お給料とかが1500元とか2000元っていう。今は全然違いますもんね、五倍六倍どころじゃないというか、どんどん生活豊かになっていますし、そうすると学ぶべきところもたくさんありますし。だから、中国語、本当に些細なきっかけでしたが、僕はやってよかったと思います。

講演会

 

――中国で一年間留学されていましたね。この1年で何か面白かった事や忘れられない事はございましたか?

 忘れられない出来事ばっかりでした。僕ゼロでスタートしたんです。9月10月からの開始だったんです、授業が。8月に行っていたら、その分一個上のクラスになるんじゃないかと思って、夏期講習から始めた。二週間ぐらいプライベートレッスンをお願いして中国語を始めたんですが 大きな間違いでした。やはり基礎が、皆さんいいですか?基礎が肝心ですよ。とにかく何もわかんない状態だったんで。先生は日本語喋れない、僕は中国語喋れない。英語の授業が始まるわけです。何のために僕は中国に行ったんだろうっていう。

 

 当時一番最初食事が怖くて。学食がどこにあるのかも知らなかったんです。オリエンテーションもまだ始まる前だったんで、寮だけここですっていわれて。ご飯食べに行こうとしても、ご飯がどこで食べられるかが分からなくて。最初コンビニに行って、おにぎりと烏龍茶、サンドイッチを買った。おにぎりが漢字が読めなくて何味か分からなかったんですけど、「肉」って書いてるのがあったんで、これはいいんじゃないかなと。ウーロン茶っていうのは、サントリーだったんですけど、青と赤で、「低糖」っていうのと、わかんない字と「糖」って書いてあったんです。今考えると「ない」って言う字だったんです。「无」だったんです。「ない」っていうのがわかんなくて、「大」という字に見えて。大きく甘いのか、小さく甘いだと思って、僕は小さく甘い方を選んだわけですよ。飲んだら口の中が甘くて、なんだと思って、おにぎりを食べたらまたこれが甘くて、あ~って、サンドイッチしか食えなくて、結局しばらくサンドイッチと水だけ。

上海留学中に友人たちと

 

 どうにかしようかなと思って。 「麻辣烫」のお店があって野菜が沢山あったんですよ。野菜が恋しくて、なんとかしてこれ食べられないかなと思って入って。当時いくらとられるか分からないから、ポケットの中に500元ぐらい小銭を入れて。いくらって一応聞いたわけですよ。「多少钱」も言えなかったと思うんですよね。とりあえず、「これ」って指を指して、落語家だから「食べる音」とか色々あるじゃないですか。でお金のマークをしたら、「あー」ってなんとなく通じる。向こうゲラゲラ笑ってたけど。束になった野菜、「これで(お金を出して)いいかな?」「うん」って。で最後ラーメン入れて。いくらぐらいだったかな?五元か六元ぐらいだったかな。一束五毛とかでしたからね。ものすごく辛いんですよ。とにかく麺が食べられて、野菜が食べられて、おいしい、おいしいって思って食べて、だけど、だんだんお腹が痛くなって、毎日昼にサンドイッチ、夜に麻辣烫っていう生活を一週間続けてたら、どんどん痩せちゃって。どうしようと思って。あ、こういう時こそ言葉を使おうと思って、先生に「中国語喋りたいです」って言って、「なんかしゃべりたいことあるの?」って言われて、「ちょっと辛いの苦手ですって言って欲しい」と、辛くてしょうがないから。で、僕が一番最初に覚えた中国語って言うのが“我不喜欢辣的”。もう意気揚々と“你好”ってお店で言ったら、店のおやじさんがびっくりしちゃって。「こいつ口聞けるのか」って、一週間ずっと口聞かないでただ飯食ってたやつがいきなり手挙げて“你好”って言ったら、 “哦,你好你好!”みたいな形で。

 

 で野菜を束になっているやつを入れて、言ったんです。“我不喜欢辣的”て言ったら、店のおじさんが目を丸くして口ポカンと開けて、ご存知の通り「麻辣烫」って辛い物の専門店じゃないですか。一週間通い続けたら、よっぽど辛い好きだと思って、最初に言った言葉が“我不喜欢辣的”って言った瞬間に、向こうがパクパクし始めて。で何もかけずにそのまま出されて。いや、そういうことじゃないんだよっていうね。

上海留学時代

 大学に日本語しゃべれる先生いたんです。けど、僕は決めたんです。中国に降りてからは一切日本語しゃべらずに中国語でやろうと思ったけど、一週間目にして折れて、もうダメって。で先生に(日本語をしゃべる先生)、「もう僕は、この国で生活できません」って言ったら、その先生が「坪山さん(本名坪山隆行)はなぜ学食に行かないんですか?」って言われ、「そんなのあるの?」って言って。 学食に行ったら二元とか三元で、チャーハンとかものすごい量出てきて、めちゃくちゃ美味しかったんです。 やっぱり日本語って必要だなと。けど、そういう面白いことばっかりでした。

 

 だからもう二ヶ月ぐらいしてすぐに旅行行っちゃいました。当時はほとんど喋れてないです、ただなんとなく「多少钱」とか「买票」とかわかるぐらいの。旅をいきなりしましたね。

 

 (“火车”とかで)外国人ってわかると、ものすごい話しかけてくるじゃないですか。「お前何人だ」「日本人だ」って、「日本の金みせろ」とか、あとは「日本は給料どのくらいもらえるんだ」とか。「日本の家賃はどのぐらいだ?」って。で、あの時に本当に片言の中国語で話したりとか。あと学生さんとかがいて、学生さんがちょっと英語を訳してくれたりして。

 

 お弁当が6時ぐらいに売りに来て、日本だったら15両編成とかじゃないですか。ところが中国って30両ぐらいありますよね。ものすごく長かったです。一回売りに来て、まだいいやと思ったら、それが最後のお弁当だったらしく、どうしようと思って。9時ぐらいにすごい腹減って、隣でカップラーメン(食べているの)をちらちら見てたら、「食うか」って言われて「いいんですか?」って、金渡そうとしたら「いいから、これはプレゼントだ」みたいな形で渡してくれて、その中国の学生さんから貰ったインスタント麺が美味しかったです。なんかしゃべれないときは喋れないなりの楽しさっていうのがあって。とにかく思い出を語ると語り尽くせないです。

 

――中国のどこに一番惹かれますか?また、中国文化の魅力は何だと思いますか?

 とにかく正直でいいです。行きたくないところは行きたくないと言うし、こんなのどうかなと言ったら嫌だっていうし、すごく楽でした。 僕海外の人が日本人ってわからないって言うのが、海外に行って分かりました。日本って、嫌だなと思っても行こうよって言われたら、いいねって言っちゃうんですよ。日本って同調圧力というか、なんとなくこうだよっていうようなもののルールがすごく多いなと。そういう意味では中国の人ははっきりしてますから、びっくりする時もあります。いやだった時には絶対来なよとは言わないし。日本だとすごい壁があって、壁を取り除くまでにものすごく時間がかかるけど、中国はやっぱ合うか合わないか。そういうのはすごく勉強になりました。

あとロマンチストですよね。 僕、本当に好きなの。いまだに「四川フェス」の時もやったりするんですけど、乾杯のときの宣言みたいなのあるじゃないですか。 我々がこの広い世界、この広い中国、この広い青島で、三人で飲める、これを奇跡という、みたいなこととか、もうああいうのが大好き。

 

 一回、中国人二人と僕の三人で飲んでて、そのときにシーバスリーガルっていうすごく美味しいウイスキーが結構いい値段したんですよ。店員さんが今キャンペーンもしてまして、 二本頼めばプラス1本ただになるって言ったら、二人が腕組んで考え始めたんです。僕ら三人しかいないんですよ。三人しかいないのに飲むわけないじゃないですかそんな量。結局頼もうって話になって、こんなに飲める機会ないから。めちゃくちゃ飲みました。あれも忘れられない飲みでした。

 

 あとはすごく長い歴史あったりだとか、あと京劇だとかまだ触れられるところに存在をしたりとか。あとは、博物館。上海博物館とかもそうですけれども、一日いても見きれない。紀元前何千年というものがドカドカ出てくるじゃないですか。例えば、日本で卑弥呼が和の国の王と言われていた時代に、向こうは諸葛亮孔明がこの時期には南東の風が吹くとかをやっているわけですよ。ああいうものを見るとすごい歴史があって、そういうのも魅力です。

 

――「四川フェス 2023」をご紹介して頂けますか

 四川フェスは大人の文化祭っていうか、みんなボランティアみたいな(感じで参加している)。いろんなお店の料理を食べられて、見られて。いろいろゲストの方々がいらっしゃるので。去年コロナ禍で限定イベントみたいな形にしたんですけど、2万5千か3万来たかな。それが前の時だって10万規模で来てました。今年は多分そのぐらいの規模でできるんじゃないかな。 見て聞いて食べてっていうようなことで、中国を味わえるお祭りだなというふうに思いますので、今回(YouTuberの)ヤンちゃんと僕で一緒にあのラジオブースを担当させていただいて。だから中国の方が来てもわかるように、日本人が来てもわかるように、みんなが楽しめるイベントになっておりますので、ぜひお越しいただきたいなと思います。

四川フェスでの一枚

 

――最後に、「聴く中国語」の読者の皆さんにエールを頂けますか?

 皆さんすごく勉強されていて。いいなと思ったのが「聴く中国語」って言って。日本人って意外とヒアリングに力を入れてないなと。「母国語」って海外は「Mother Tongue」と言います。 母の舌なんですよ。まず、お母さんがたくさん話しかけたんです、子どもに。それが元になって言葉が喋れるようになる。それって子供に対して書いて教えたかっていうと、そんなことなくて、沢山話しかける、沢山の言葉のシャワーを浴びる。 中国に留学をしていた時、ずっと言葉のシャワー浴びるわけじゃないですか? 半年ぐらいの時かな、ラジオがタクシーの中で聞こえたんです。何言ってるか分かった時の嬉しさ。全部聞き取れるわけじゃないんですけれど、今天気の話してるなとか。大まかに。それが徐々に徐々にこの人、何が言いたいのかっていうことが分かるようになって、あと分からない単語が出てくると、「それ、どういう意味」って聞けるようになった。一番は耳だなと思って。

 

 例えばさき言った「我不喜欢辣的」。言ったところで、相手が喋っていることが聞き取れなければ何の意味もないわけです。ただ伝えました。それって自己満足で、“For Me”ですね。 けど、言葉って“For You”であるべきで。 相手に対して伝わってなくちゃいけないってこと、相手の話を聞きとれなくちゃいけない。 そのためには、たくさんの言葉のシャワーっていうようなものを浴びる必要があるし。その聞いたのと同じように喋る、耳で聞きながら。

 

 これ実は落語と同じ覚え方だったんですよ。 僕は師匠から「書いて覚えるな」って言われたんです。書いたら、間も、キーも、それから声の強弱もつけられない。「本日はお運びをいただきまして、誠にありがとうございます。今日は落語という演芸をお聞きいただきたいと思います」棒読みということですね。ずっとフラットなんです。ところが落語家って、そんな喋り方しない。「本日はお運びをいただきまして、誠にありがとうございます。さあ、今日皆様方には落語という演芸をお聞きいただきたいと思います」。 どっちが聞きやすいです? 絶対後者ですよね。そこには抑揚(がある)。中国語には、四声というものが存在する。それをやっぱり耳でワンフレーズ、ワンフレーズ。とにかく何遍も耳が慣れるまで。沢山聴いて。 楽しい国で、ぜひ中国に行って欲しいし。とにかく諦めずに。

本当この『聴く中国語』を手に取ったという縁でもあると思います。その縁をどんどん広げていって、その行き先にはやはり中国人が言ってる中国語、例えば駅のアナウンスとか、ああいうものを全部聞き取れるようになったらすごく楽しいかなって。すべて縁です。だからずっと付き合っていきたい国だなというふうに思っています。

 

――ありがとうございました。

 ありがとうございました。

落語家・三遊亭楽生師匠/1977年7月 埼玉県さいたま市生まれ
1997年4月、6代目三遊亭円楽に入門し、「楽花生」。2001年3月、同名のまま二つ目昇進。2006年6月、中国語習得のため中国留学(上海東華大学、北京語言大学)。2007年7月、留学を終え中国から帰国。2008年3月、「楽生」と名を改め真打昇進。

 

今回のインタビュー内容は月刊中国語学習誌『聴く中国語』2023年5月号に掲載されています。さらにチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2023年5月号をご覧ください。

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