中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。
今回は、「局外人書店」オーナーの趙国君さんにインタビューをしました。趙さんは、ご自身の人生経験を通して、今どのような思いを抱いてらっしゃるのでしょうか。現在取り組んでいる活動や、将来的な展望についても伺っています!
――趙先生こんにちは。先生のこれまでの歩みについてお聞かせいただけますか?
私は河北省唐山の出身です。高校卒業後、大学受験に失敗してしまい、大学ではなく、当時「省中専」と呼ばれていた河北税務学校に進学しました。高校時代の成績は非常に良く、常に学年1位でしたが、当時は一回の試験の結果が一生を決める時代でした。
しかし、当時、税務を学ぶ学生は非常に重視されていました。税務分野は人材を求めており、学歴はそれほど高くなくても、専門的な教育を受けた人材として、非常に歓迎され、重宝されました。向こうが必要としていたのです。そして、私は末端の税務署の副所長から、いきなり市の税局査察チームのリーダーに異動することになり、帳簿の調査を専門的に行いました。ただ、私の中にはずっと「大学に行けなかった」という心残りがありました。学ぶことへの強い意欲があり、とりわけ法律に興味を持っていたので、税務機関に勤めながら「高等教育自学試験」で法律専攻の全ての科目に合格しました。その後、弁護士になりたいと思い、弁護士試験にも挑戦しました。2003年、勤務11年を迎えたタイミングで、進学するチャンスがあり、中国政法大学の社会人大学院生コースに入学しました。

(大学院の)この2年間は私にとって非常に大切な時間で、活発に思索を巡らせた時期でした。北京で私がよく足を運んだ場所、1つ目が北京大学です。当時、北京大学の法学院では博士フォーラムや大学院生の講座があり、私はよくイベントに参加しに行ったり、聴講しに行ったりしていました。北京で過ごす時間の半分、いやそれ以上の時間を北京大学で過ごしました。もう1つは天則経済研究所です。2週間に1回学術講座があり、思想が交錯する場所でした。
――先生に最も影響を与えた方はどなたでしょうか?
北京大学の賀衛方教授です。2005年10月10日、私は初めて北京で「中国の弁護士を訪ねて」というイベントを開催しました。それが私の(イベント主催の)スタートで、最初に登壇されたのは賀先生でした。それから、様々な講座やフォーラムを開催しましたが、いずれも1人目のゲストには賀教授をお招きしました。賀教授は私が最も影響を受けた方であり、師でもあり友人でもあります。

――日本に来て書店を開くことを決めた経緯についてお話しいただけますか?
実は、2016年に私は4つ目のプロジェクト「世界文明の旅」を企画しました。これは、世界を巡り、指南役がチームを引率し、テーマに沿った旅をするものでした。例えば、「アメリカ法律革命の旅」では、北アメリカのマサチューセッツのハーバード大学からフィラデルフィア(ペンシルベニア州)、そしてニューヨークを巡るという内容です。オーストラリアでは、「モリソンを探して」という芸術的なテーマで、アルゼンチンのオペラを聞くといった旅を企画しました。日本のプログラムが最も形になっていて、一番うまくいきました。「明治維新の旅」というものです。
2016年6月23日に日本に来たのが一番最初で、それ以降は毎年2回のペースで続けています。「明治維新」というテーマで、鹿児島から出発し、山口、京都、そして東京を巡りました。明治維新の歴史を文化観光のテーマとして展開しました。2016年から2019年まで、毎年順調に行われました。
ですから、2016年からよく日本に来て、日本に慣れ親しんでいきました。2017年には訪問学者として、妻子と一緒にしばらく日本で暮らしましたが、とても居心地良く感じました。それで、日本に来ることを決めました。

――では、書店を開くまでの経緯について簡単にお話しいただけますか?
書店について簡単にお話ししますと、日本に来た後。神保町によく通っていたんです。読書家の楽園のような場所ですから。そしてある日、妻にこう言いました。「ああ、神保町は最高だ。自分が死んだら、あそこに埋めてもらいたいな」と。すると妻から「死んでから(そこで)何をするの?生きているうちになにかやりなさいよ」と言われました。「じゃあ、生きているうちにやろう。書店を開こう」とピンときたんです。こうして、自分の得意分野からスタートすることになり、2023年の6月末に書店を開くことを決めたのです。その日は暑い夏の日で、非常に興奮しながら神保町に足を運びました。死ぬほど暑かったのを覚えています。ところが、場所を探すのが思いの外難しかったのです。言葉が通じなかったのが一番の難点でした。2つ目の難点は、経営上の問題でした。このビジネスは、完全な赤字プロジェクトだったからです。

――「局外人」という名前の由来は何ですか?
1つ目の理由は、フランスのカミュの名作『異邦人(原題:L’Étranger、中国語訳:局外人)』です。なぜ『異邦人(“局外人”)』を選んだかというと、私の経歴を見ていただければわかるように、私は長い間、組織の外を渡り歩いてきた人間だったからです。(笑)2つ目の理由は、日本に来てから、自分自身が傍観者であり、第三者であるという立ち位置を自覚しています。外国人なので。一方、中国人の文化では、もともと部外の立場にいることを標榜する傾向がありました。荘子のように、世間や政治の世界から遠ざかり、第三者でいるのが知識人の憧れでしたね。



局外人書店代表
趙国君
<略歴>
1972年 河北省唐山市に生まれる
1992年 税務部門に勤務
2005年 中国政法大学在職研究生課程を修了 法学修士取得
2005年~2008年“走進中國律師”フォーラム「嘉言論壇」を主催
2007年~2008年 「博聞講壇」シリーズ講座を主催
2009年~2010年 『法制日報』の主筆を務める
2011年~芸術独立フォーラムを主催
2016年~世界文化の旅を主催
2023年 局外人書店を創設
今回のインタビューの続きは月刊中国語学習誌『聴く中国語』2025年6月号に掲載されています。さらに詳しくチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2025年6月号をご覧ください。

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