インタビュー!絵本編集者 唐亜明さん

インタビュー

中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。

今回のインタビュー相手は、絵本編集者の唐亜明さんです。児童絵本の編集を手掛けてきた巨匠ともいうべき唐さん。彼の絵本編集の人生へといざなっていただきましょう。

――唐さんこんにちは!インタビューできて光栄です。読者がより深く理解できるよう、ご出身や日本に来られた経緯などについて簡単に教えていただけますか?

 私は1953年に北京で生まれ、小学校を卒業した後に文化大革命が起こり、当時、学校はすべて休校になりました。(私は)16歳のときに中国とソ連の国境にある黒竜江省に下放され、軍事訓練をしながら農地を耕しました。見渡す限り果てしない黒い土地でした。このことは私の人生と、私の美意識に非常に大きな影響を与えました。

下放された先で労働に従事するようす

 当時私は生きる道を一心に求めていました。というのも両親は文革中に打撃を受けたからです。父はマスコミの仕事、母は医療の仕事をしていましたが、父は長い間拘禁され、母も病に倒れていました。ですから私は北大荒から逃げ出したかったのです。何かいい方法はないだろうか?当時文芸団が文芸兵を募っており、私は幼い頃から歌うことや楽器が好きでしたので、すぐに必死でアコーディオンを練習し、ついに解放軍の文芸団に合格し、アコーディオン専門の奏者になりました。

アコーディオンを弾く若き日の唐さん

 母はこう言いました。あなたたちの世代はちゃんと勉強していないのだから、高校と大学の教材を自習し、さらに外国語も学ばなければならないと。英語を学ぶ人はたくさんいましたので、私は日本語を学ぼうと思いました。なぜ日本語か?私の家にはたくさんの日本語の本があったからです。父は日中戦争が始まる前、日本に留学したことがあったのです。私は幼い頃から本棚に日本の本があるのを見て、とても興味が沸き日本語を勉強しようと思ったのです。

 その後文工団部隊(文芸工作団)の体制改革が行われ、、私はニュース報道の仕事に就きました。1980年ごろ、(私は)部隊を退役して『中国旅游報』に入りました。この時に日本語を使うチャンスが多くなったのです。私は中国音楽家協会が日本語の翻訳者を募っていると聞き、日本語も音楽もできるからと試験を受け、本当に受かりました。受かってからの中国音楽家協会の仕事は、日本の歌の翻訳でした。80年代初期の中国は、ちょうど大量の日本の歌が入ってきた時期でした。当時、私はたくさんの日本の歌を翻訳しました。今でも誇りに思ってるのですが、その頃中国で最も有名なスター歌手達はみな私のよい友人で、皆私に日本の歌を求めてきたのです。中国で最初の日本の曲のアルバムは歌手李谷一さんによるものでした。私は李谷一さんと一日中選曲で悩み抜き、一つ一つ聞きながら一つ一つ選んでいったのを覚えています。

日本の青年三千人の訪中に際し、日本人歌手と曲をレコーディングするようす

 1982年9月のある日、私の先生(早稲田大学を卒業した王汝蘭先生、中国民間文芸研究会の研究員)から電話があって、こう言われました。「唐くん、明日時間ある?風邪をひいてしまったの。ちょうど日本の児童書出版関係者の代表団が来ることになっているのだけど、明日対応してくれない?」そして私は行きました。

 この代表団(にいた人達)は実は日本児童書出版界の大物ばかりでした。たとえば日本人なら誰でも知っている『スーホの白い馬』の赤羽末吉さんや中国の民間文学専門の翻訳家、君島久子さん、小澤征爾さんの兄で元筑波大学副学長の小澤俊夫さん、さらに福音館の社長、松居直さんなど、すべて有名な方々ばかりだったのです。しかし当時私はまったく面識がなかったのに、彼らを引率して1週間一緒にまわったのです。

 最終日、松居直さん(福音館社長、福音館は日本最大の児童書出版社)が言いました。唐さん、二人で食事をしませんか?私はもちろんですと応えました。食事の時、彼は言いました。「福音館で働く気はないですか?」と。私は「福音館は何をする会社ですか?」と尋ねました。心の中で宗教に関係があるのではないかと思っていたのです。私たちの世代は宗教思想を批判することもあったので非常に警戒していました。しかし私は学びへの切なる気持ちがあり、日本語の上達のためにもよいと思ったし、日本の歌を翻訳していたので日本に資料を探しに行きたいとも思ったのです。

 日本に来てから日本の出版界は外国人を正社員として雇ったことがないと初めて聞かされました。私が日本で一人目だったのです。時は1983年8月。日本に来る前、福音館書店は私に雇用証明などのあれやこれやの書類を送ってきて、当時はよく分からず、本当かどうか分からないがとにかく行ってみよう、と思いました。行ってから考えればよいと。まさか本当に正社員として福音館に入り、日本での生活が始まるとは思いもよりませんでした。人生とは計画通りにいくものではなく、意外なところから開けるものなのですね。

 それまで児童書を作るとは考えもしなかったですし、よく知らなかったのですが、松居さんは私に何かを感じたのか、自分なりの考えをお持ちでした。まずは彼の一貫したやり方です。本業の中から人材を選ぶのではなく、大胆にも外国人を雇用して出版の仕事をさせるのですから、他の社員にもよい刺激になるのです。もうひとつの重要な要因としては彼の世代は中国に対して申し訳ない気持ちがあることでした。彼はずっと強調していました。「私たち日本人は中国人に対して罪を背負っている、それは自分の行動で償うしかない」だから当時中国の若者をひとり育てたいと思っていたのかもしれません。もうひとつ彼は将来中国が非常に前途有望な国になると考えていたようです。

来日後、松井直先生とともに(1984年)

――日本で中国人が絵本の編集者になること、編集すること自体、恐らく簡単なことではないはずです。どのように絵本編集の道に入られたのですか?その過程でどのようなことを学ばれましたか?

 私が最初に福音館に入った頃、松居さんに絵本づくりを学んだことがないことを伝えました。すると彼は私に仕事を覚えながら大学を卒業するようにと言いました。そこで私は福音館で仕事をしながら早稲田大学第二文学部の授業を受けました。さらに働きながら東大の大学院生にもなりました。成果として、ひとつは日本について学ぶことができ、もうひとつは日本語を磨けたと思います。

 それに、児童図書には国境はありません。どういうことかと言えば、どんな国の子ども達も、本を読むときにそれがどの国の物語かなどと考えてはいません。ただ面白く、好きなら良いのです。この点でも私にはとても有利でした。(松居さんはこう言っていました)「最も重要なことは何でしょうか?あなたが子どものころに好きだったこと、嫌いだったことは何かよくよく考えることです。それが出発点になります。みんなかつては子どもだったのですから」。

 そこで私は二つの方法をとりました。ひとつは優秀な作品を一生懸命読むこと。これは私たちにとって補習科目です。そしてもうひとつは自らの感覚に従って、自分が本当に好きなもの、やりたいと思うものを本にすること。この点は、日本は非常に得意とするところだと思います。どの編集者も独立した存在で、どの編集者も自分の好き嫌いや興味に基づいて仕事をしています。そうすれば私たちの活動範囲は広がります。私は自分の好みと感覚に従って、「子どもの頃、こんな本があればよかったなあ!」という感じで本を作るのです。こうして日本の編集者と仕事をするようになり、彼らが作れない本を私が作れたり、よりうまく作ることさえできるようになりました。

1991年第22回講談社出版文化賞を受賞

『100万回生きたねこ』『おじさんのかさ』『富士山うたごよみ』『10歳から始める経済学』などの有名な児童書を翻訳や編集されていますね。絵本の読物を編集されるときには何か原則や心がけていることはありますか?

 『100万回生きたねこ』と『おじさんのかさ』は私が編集したのではありませんが、私が中国語に翻訳し、中国に紹介して非常に売れ行きがよかったのです。(この2冊の)作者である佐野洋子さん(亡くなられてしまいましたが)とは生前とても仲良くさせていただきました。というのも彼女は北京で生まれたのですね。戦争の間、お父様が中国の北京大学で客員教授をされていたので北京で6歳まで過ごされ、7歳で日本に帰られました。ですから彼女の人格の基礎は中国で形成されたということもあり、私たちは気が合いました。彼女が創作した『100万回生きたねこ』も実は中国文化から影響を受けたものです。たとえば「100万回」という「美」は中国の誇張の「美」です。ですから中国でも特別に人気があります。いまでは中国の販売部数は日本での販売部数を超えました。

『100万回生きたねこ』

 『富士山うたごよみ』もとても面白いです。私は一人の外国人として、富士山には特別な思いがあります。ですから富士山の本を作るのがとても好きだったのです。しかしやがて富士山は日本人にとって神聖な山であることが分かってきました。富士山に関する書籍はみな科学の範疇に入ります。ですが私は偶然世界的に有名な装丁家に出会い、彼が富士山のポスターをつくるのを得意としていたので、私はとても面白いと思って彼に絵を描いてもらうことにしました。

 (本の内容について)松居直さんに意見をうかがいました。彼は「和歌がいいね」と言い、私はそれは良い思いつきだと。たまたまページ数を数えると48ページ、24画でした。突然閃きました。中国には二十四節気があるじゃないか、二十四節気を通して四季を巡ってみてはどうか。この機会を利用して、子どもたちに先祖から受け継がれてきた二十四節気を改めて学ばせ、覚えさせるというのは、よいことではないか?

 それから俵万智さんに和歌を作っていただけないかとお願いしました。俵さんは新しい和歌を作るよりも以前書いたものを絵に合わせるほうがよいから選びましょうと言われました。私はそれも素晴らしいと言いました。なぜなら彼女の和歌はもうとても有名になっていたからです。そこで本を三つの部分に分け、第一部では二十四節気を紹介し、第二部では和歌や俳句を書き、第三部を文章にしました。子どもが読んでも大人が読んでも楽しめるようになっています。

もうひとつ、絵本の言葉というのは聴く言葉です。聴く言葉というのは誰にとっても分かりやすいものでなければなりません。リズム感、音の響き、この本は(そういった面で)よくできており、売れ行きはずっと好調です。

『富士山歌歴』

 (また)『鹿よ、おれの兄弟よ』も中国で出版され、二つの大きな賞をいただきました。(現在までのところ日本でこの二つの大きな賞をとった本はありません)ひとつは講談社出版文化賞、もうひとつは小学館児童出版文化賞です。この本は、私の人生と関わりがあります。私が16歳で中ソの国境に下放されたとき、ソ連がシベリアと呼び、中国が東北(実際はつながっているのですが)と呼んでいた場所で、狼の群れ、黒い土地、白樺など美しい自然の風景を見ました。それがずっと私の心の中にあり、私が見た美しい自然の美を日本の子どもたちは見た事がないのだと思い、なんとしても日本の子ども達に知ってもらいたいと思いました。

 ですから誰かにこの本を書いてもらいたいと思っていました。書いたのは私が探しあてた神沢利子さんです。彼女は幼い頃から樺太にいたので、北方民族にとても関心があり、良く研究されていました。私は北方民族のシベリアの物語を書いてくださいとお願いました。彼女が書いたものは当時の編集部で企画が通らず、絵本らしくないと言われました。しかし日本の良さは個人の意見を認めてくれるところです。上司の誰かがダメだと言ったからといって、できないわけではないのです。ですから私はしっかりと最後までやり遂げようと思ったのです。

 私は編集を手がけてからひとつの原則をたてていました。物語が書かれた国の画家に、絵を描いてもらうということです。それで、私はシベリアの画家になんとか頼もうと考えました。紆余曲折を経て人間国宝の方を見つけたのです。この方は何とも風変わりな方でした。返事がなかったので、私は彼を探しにいきました。(謝:シベリアまでですか?)はい。この本は、そういった前後のあれこれを含めて5年を費やしました。そしてようやくこのような素晴らしい本ができたのです。彼が描いた絵を初めて見たときは涙がでました。本当に素晴らしい絵でした。ですから本を作ることは、細心の心遣いを持って作り、人生をかけて作らなければなりません。

『鹿よ、おれの兄弟よ』

 いま(この本は)中国でも翻訳され出版されています。ですが中国ではそれほど売れ行きはよくありません。中国ではいまどちらかというと実用性が求められており、『10歳から始める経済学』のような本が売れています。私が思うに日本と中国は多くの面で徐々に近づいてきていますが、児童絵本の分野だけは、30年の開きがあるようです。中国の本作りはいまや日本と変わらず、美しく、印刷や装丁もよいものです。しかし(まだ)考え方に差がありますね。

 日本も4、50年前までは実用が求められていました。人々は「どうしたら子どもが試験に受かるか」、「どうしたら有用な人材に育てられるか」といった観点から本を選んでいました。中国はいまがそんな状況です。その後日本人は徐々に絵本と教育を別のものとして発展させていきました。それでも日本人がこのように変わっていくのに数十年かかっています。だからこそ、私は今中国でこのような仕事をし、少しずつ中国人の概念を変えようとしているのです。子どもは本を通じて読書の楽しみを知り、両親が本を読み聞かせてくれる心の温もりを感じます。こうしたことが人の成長や人生において最も重要なものになるのです。実際に本を通じて感情が育てられるのですね。

多くの絵本を編集されていますね。特別大きなサイズの本や中国の古典文化を題材とした絵本『桃源郷ものがたり』(編集、中国出版)『梁山泊と祝英台』(編集、中国出版)『ナージャとりゅうおう』(編、著、翻訳、中日出版)など、賞を受賞したものも少なくありません。これらの本を編集されたときに特別印象深かった出来事や忘れ難い出来事を教えていただけますか?

『桃花源的故事』(編集、中国)

 『ナージャとりゅうおう』は思い返してみると、とても面白かったです。元は于大武(中国の有名な画家)が描いたものです。私が文章を書き、一緒に作りました。面白かったのは中国の細密画というのは、人物の大小が同じで絵本のような遠近がありません。中国画にはこのような画法はなく、絵本の時には遠ざかり時には近づく、まるで映画のような連続性はありません。これは絵本の一つの機能でしょう。ページをめくりながら、子どもは物語の世界へ引き込まれていくのです。ですから私は于大武に言いました。あなたのこの龍の頭はもっと大きく描かなきゃならないと。彼は、これは以前にはなかった新たな試みだと言いました。(要は)現在の(中国の)絵本界の大物、有名な画家というのは、強く日本の影響を受けているのです。

『ナージャとりゅうおう』(編、著、訳、中日)

 大きなサイズ(の絵本)と言えば、これは(私の)発明で、日本の児童出版界ではとても有名で、「唐サイズ」と言われています。いつも冗談で言われます。背も高く(180センチ)声が大きく、なんでも大きなものが好きだと。日本人は小さいのが好きでしょう。最初の「唐サイズ」は偶然から生まれたもので、それは『わらのうし』と呼ばれた絵本でした。ウクライナに行って、ウクライナの画家にお願いして、描いてもらった本です。この画家はもともとはソ連政府の御用画家で、指導者の肖像画を専門に描いていました。やがてソ連が解体され仕事を失いました。その後私が彼に絵を依頼すると大変興味を示し、感謝してくれました。しかし、描き終わって見せてもらうと、なんと文字を入れるスペースがありません!絵本に文字のスペースが必要だということを知らなかったのです。

『わらのうし』

 日本人の編集者なら、このような場合には絵に空白のスペースを作り、そこに色を塗り、(文字を)印刷しますが、私はそれでは見栄えがよくないと思いました。それで中国の「連環画」(小型の絵本)を思い出しました。連環画の文字は全部下に書いてあったのでは?でも(絵本の)大きさはどうするか?本を大きくしなければ、文字が入らない。その後、制作部門に相談すると、紙は製本するときに一部切り取られると教えてもらいました。私はどのぐらい切るか教えてほしいと言いました。この大きさなら、コストも上がらないし、本も大きくできるという大きさ。彼は私に適切なサイズを教えてくれ、それが「唐サイズ」となったのです。やがてこの本ができてから、幼稚園や小学校の反応もとてもよかったのです。人が多いときでもはっきり見えるからです。それから私はだんだん「唐サイズ」の本を作るようになりました。営業部はこんな大きな本をお母さん方はどうやって持ち運ぶのか、と言いました。私は幼稚園と小学校低学年の児童の絵本はこんなに大きな本にはしないと答えましたが、逆に聞きました、なぜ大きいのを嫌がるのか、家のテレビはどんどん大きくなっているのに、と言うと、彼らは笑っていました。時代は進み、絵や印刷が美しくなり、サイズが大きくなっても問題ないから、こうして、「唐サイズ」は残っているのです。

大人にもおすすめできる絵本、とくに中国語学習に適した絵本はございますか?

 私がよいと思うのは、日本でも中国でも出版されているもの、そのような本は意外とたくさんあるのです。たとえば『一百万回生きたねこ』や、私が中国で作った『あ、トラがきた!』や『肉包子和鉄包子』などがそうですね。

2002年、万里の長城にて絵本『万里の長城』を持って。右から松井直氏、加古里子氏。

――最近WeChatチャンネル『魚眼看日本』の中で、中国人視聴者に日本の生活を紹介していましたね。どのようなきっかけで動画制作を始められたのですか?

 于前という女性撮影家がいて、このチャンネルを『魚眼看日本』と名付けていました。その人の名前が于(ユーで「魚」と発音が同じ)だからです。彼女は私が絵本や日本文化の話をするところを撮るのが好きで、(私たちは)文化の話題を取り上げることにしました。始めてみると大変人気を集めました。当初の願い、両国の人がお互いに本当に理解し、理解することで友好を促進し、ひいては平和につなげようということです。

『鱼眼看日本』チャンネルはコチラから入れます

――最後に『聴く中国語』の読者に一言激励の言葉をお願いできますか?

 中国語を学ぶことは決して損ではありません。それどころか大変ためになるでしょう。中国は日本の隣人であり、お互いにこれほど大きな影響を与え合っているのですから、私は日本人が中国語を勉強することをお勧めします。漢字を見て分かるのですから中国語を学ぶのに日本人は世界で最も有利ですよ。発音は訓練が必要かもしれませんが、日本人は発音さえ乗り越えれば世界のどの国より中国語をうまく学べるでしょう。それに日本にとって中国は非常に重要な隣国です。中国語を学べば世界で5分の1の人が話す言語を習得したことになり、人生において非常に重要なこととになるでしょう。多くの日本人読者がこの雑誌を好きになり、中国語を学べることを願っています!

絵本編集者 唐亜明:1953年北京生まれ。新聞記者、翻訳者を経て、1983年来日、福音社書店入社。早稲田大学文学部卒業、東京大学大学院修了。編集のかたわら、東洋大学、上智大学非常勤講師を務める。長年、NHK国際放送にたずさわる。編集者として多くの絵本を手掛け、数々の賞を受賞。現在、北京の児童書出版『小活字』編集長を務める。

今回のインタビュー内容は月刊中国語学習誌『聴く中国語』2023年7月号に掲載されています。さらにチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2023年7月号をご覧ください。

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