インタビュー!中国現代史・国際関係問題専門家朱建栄教授

インタビュー

中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。

今回のインタビュー相手は、中国現代史・国際関係問題専門家の朱建栄教授です。今では著名な朱先生が如何にして日本に興味を持ち、やって来ることになったのかなど、興味深いエピソードをお伺いしました。

――朱先生こんにちは。ご出身についてお話頂いてもよろしいでしょうか?ご出身はどちらでしょうか?また、どうして日本に来ることを選ばれたのでしょうか?

 私は上海で生まれましたが、本籍は浙江省です。上海で大学に通いました。その後、上海国際問題研究所で働きました。当時は客員研究員として日本の研究所に来たのです。

――どのようなきっかけで学問の道に入られ、また現在の学術方面を選ばれたのでしょうか。

 私は小学生のときから国際関係が好きでした。当時は海外に関する本が非常に少なかったのですが、『読報ハンドブック』という本があり、各国の状況や地理を紹介していて、私には手放せない1冊でした。私は国際世界の各国の状況を知ることも好きだったので、両親にお金をもらって各大陸の地図を買って家の中に貼りました。それから各国の国名や首都の名前を覚えることは小さい頃から好きでしたね。

若かりし頃の朱先生

 日本を好きになり、日本と縁ができたのは、やはり日中国交正常化と関係があるかもしれません。1972年、中日の国交が回復したその時、白黒テレビで田中元首相が訪中し周元総理と握手を交わすのを見ていましたが、それは自分とは関係のないことだと思っていました。ところが翌73年から、上海人民放送局がおそらく当時の中国で初めての日本語のラジオ講座が始め、そのとき私は中学生でしたが、放送を聞くとすぐ日本語が好きになり、またもっと日本を知りたいと思いました。

 文革の間、私は農村に3年間下放されましたが、日本語のラジオ講座は聞き続けていました。文革以降、鄧小平が復帰し、大学入試を復活させました。私はその第1期の大学合格者でした。しかも志望通り華東師範大学外国語学部の日本語専攻に合格し、それから日本との縁ができたのです。

大学時代、日本の専門家とクラスメイトとのショット

――日本に留学に来たばかりの頃のご経験をお話いただけますか?

 日本に来たばかりのときに感じたのは「視界の衝撃」でした。上海にいた頃、南京路や准海路などは全国でも有名な商店街でした。当時日本の友人が上海を訪れ、私は彼らに付き添って准海路に行きました。彼らは賑やかな商店街なのに夜はなぜこんなに暗いのかと聞きました。私はこれが暗いって?最も明るい場所なのに、と思いました。後に日本に来てようやく何を明るいと言って、何を暗いと言っているのかが分かりました。日本に来た初日、私は新宿付近のホテルに泊まり、東京の夜のネオンを見ました。これを「眠らない町」というのです。当時の日本と比べると、中国国内との差があまりに大きすぎました。それが第一の衝撃でしたね。

 第二は朝の新宿で、赤信号のときには数百人が並んでいて、緑に変わるとひとかたまりになって整然と道を渡ります。その交通秩序を守る感覚が、当時の中国では想像もできませんでした。日本人は年配の方も私より速く歩いていきます。当時は皆出勤を急いでいたのですね。そのとき私は現代化した日本と当時の中国との差を実感したのです。それがその後日本に残ろうと思った理由でもあり、日本を中国に紹介し、日中交流の架け橋になろうと思った原点と言えるでしょう。

――日中関係の研究で多くの著作を発表されていますね。2022年は日中国交正常化50周年でした。簡単に日中国交の50周年史をお話いただけますか。何か特に感慨深いものはありますか?

 私が日本に来て30年余り経ちますが、日中関係の変化は非常に大きいと感じます。

 日本に来たばかりのときは、中国の物産や物品が何も見つかりませんでした。1980年代、当時の中国の現代工業製品は何もありませんでしたから。今日、日本で中国の製品はどこにでもあります。日本には規定があり、15〜20%が日本で加工された製品であれば、外国製品と表示しなくてもよいのです。ですから現在、「MADE IN CHINA」は目にするもの以外にも、多くの表示のない中国産の製品があり、実際は中国から来たものもたくさんあります。もちろん、日本の中国への影響は大きいものがあります、特に人の往来において。70年代、日本にいた中国人は老華僑だけで、5万人あまりいました。その後、老華僑の二世、三世の多くが日本に帰化し、いまでは2、3万人ほどしかいませんが、新華僑は100万人近くまで増加しています。

 「日本における中国」の存在と、日本の現代化が中国の改革開放に及ぼした影響、この2点は4、50年間の日中間の密接な関係を表すものだと思います。

 しかし、別の角度からも変化を感じます。当時(30年前)、中国はとても貧しかったので、物質的なものに関しては、皆いかに節約するかを考えていました。一方で、当時の日本は勢いよく成長を遂げている時期だったため、彼らはもっと良いものを使ってもいい、どうせ給料はもっと上がるのだから、と思ったのです。ですが30年経って日中両国の状況は入れ替わりました。中国社会にはいま「月光族」という言葉があります。毎月給料をもらうと使い切ってしまう。なぜでしょうか? なぜなら今後も収入は増え、給料はあがっていくと思っているからです。日本は反対に給料はこの20年余り大して増えていません。社会のこのような心境の変化は現在の日中関係に影響を与えるでしょう。

初の著書『毛沢東の朝鮮戦争』は第八回大平正芳記念賞を受賞した

――コロナ後の日中関係、米中関係及び日米関係にはどのような変化があったのでしょうか。

 コロナは国際関係に大きな影響を及ぼしています。米中間では2020年の1月に貿易戦争休戦という暫定的な協定を結びました。今後、中米関係はある程度改善されるでしょう。しかしコロナによってトランプ政権は対応に失敗した上に、彼は自らの責任を認めようとしませんでした。その年の11月に大統領選挙が行われる予定でしたから、彼はあらゆる責任を中国に押し付けました。それまで新型コロナウイルスは自然に発生したものだと思っていたのに、2020年5月、6月以降はトランプの口調はすっかり変わりました。「中国のウイルスだ」「武漢のウイルスだ」と全ての責任を中国に押し付けたのです。その後から米中関係は急激に悪化しました。今ではこの米中の対立は構造的なものになりました。

 日中の間について言えば、2019年はまだ日中関係は「小春日和」という感じでした。あの夏は日本で日中首脳会談が行われ、双方には「共に発展する新時代の日中関係」という黙約を交わしました。2020年に中国で新型コロナウイルスが発生したとき、多くの日本国民が支援してくれました。その後日本でもコロナが深刻になり、中国人は5倍、10倍の医療物資を日本に送ったと報道されました。しかし2020年の下半期以降、私はやはり日中関係は悪化していると感じました。一つ目の原因は米中関係の悪化です。米中関係の対立は日中関係にも大きな影響を与えているのです。二つ目の原因は日中関係が抱える多くの問題です。日中関係は大切に護られなければなりません。「進まずんば則ち退く」という言葉があります。日中関係を言い表すのにとても的を射た表現だと思います。(お互いの間に)かつて戦争や誤解もありましたから。

 日米関係はどうでしょうか? おそらくアメリカは更に日本を利用して中国を押さえつけようとするでしょう。日本は軍備を発展させており、おおげさな「中国脅威論」の声が明らかに高まっています。ですから、現在の日中米関係にはやはり懸念せざるを得ませんね。

2007年には日本華人教授会の代表として福田元首相に提案書を提出した

――日本と中国の今後の外交政策はどのようにご覧になっていますか?

 コロナ以降、アメリカは明らかに中国を中傷し、中国は反駁しています。しかしときには言い過ぎて、「戦狼外交」と呼ばれることもあります。私も中国がわざと戦狼外交をしているとは考えていません。しかし国家が発展するときには更なる自信と抱負をもって外部の声を聞かなければなりません。この点で言えば、私は中国はすでに大国になってはいますが、大国のあり方を模索しているところだと思うのです。

 そしてやはり日本は、中国が発展する情勢を正しく見なければなりません。中国はもはや2、30年前、10年前でさえ同じではないのです。しかし現在の5、60歳の、日本のメディアや政治、経済を取り仕切るエリート層、彼ら(の一部)の中国に対する認識は十数年前、ひどいときは2、30年前と変わっておらず、中国の変化を正しく見ていません。日本が高度成長期だったころ、日本は前進するのに役立つような日本に対する批評は喜んで聞きました。しかし現在の日本は特に中国に対して少し弱腰になっているように感じます。日本にはよいところがたくさんあるので、それについては自信を持つべきだと思います。日中の間は引き続き相互理解を深め、共にアジアや世界に貢献していかなければなりません。

中国外交について知ることはできる著書『中国外交』

――読者の皆さんも中国の様々な時代のリーダーに関心があると思います。先生はどのリーダーの研究が最も多いですか? どのような点を評価されますか?

 私は中国の現代史を研究しています。毛沢東や鄧小平の時代などの研究はしましたね。鄧小平の時代は世の中を正しい道へ戻し改革開放を行いました。彼は中国を経済大国の道に向かわせる基礎を固めた人物です。そしてその後の中国の動向を考えるにあたって、私は江沢民時代は研究を深める価値があると思っています。

 まず中国のリーダーグループは建国の第一世代から平和の時代のリーダーへと変化していきました。このような変化は簡単なことではありません。次に、中国は確かに70年代末から改革開放路線を歩みましたが、たえず模索していました。でも江沢民時代の1992年以後ははっきりと「社会主義市場経済」の改革へと舵をきり、その後の中国の発展は比較的順調でした。中国の高度成長期が現れたのもこのあとでした。また2002年中国は「WTO」に加盟し、確かな対外開放への道を歩み始めました。これは簡単なことではありません。なぜならこれより前は、経済体制が計画経済型、閉鎖型だったのですから。本当に世界に向かう過程は主に江沢民の時代に実現しました。この意味でいえば江沢民時代は中国にとって非常に重要な時期であり、その後の中国の方向を啓示していたのです。

直近の著書『中国超新星爆発とその行方』

――最後に『聴く中国語』の読者、日中友好の架け橋を志す日本の友人、そして日中関係に学術的関心を寄せる方々に一言アドバイスをいただけますか?

 私は日本に来て30年余りになりますが、日中の相互理解には三つの段階があると思います。まず初対面の段階。姿も似ていてどちらも漢字やお箸を使うので親近感があります。しかし付き合ううちに、違うところが目に付き、本当に相手を理解する必要が生じる。それが二番目の段階です。お互いを尊重し、理解したらより深く見ることができます。日中両国は同じ東洋文明を共有しています。中国は確かに東洋文明の主要な発祥地ですが、東洋文明が20世紀、21世紀に輝きを放ったことへの日本の功績は見逃せません。つまり東洋の文明の現代化は、日本で最も多く行われたのです。

 具体的に言えば、日中の相互理解には相手の言語をより深く理解する必要があります。中国のことが好きな方はなるべく中国のネットの言論を見てください。それが本当の中国の民意を表しています。以前の中国は数紙の新聞しかありませんでした。当時日本は中国を知るときに虫眼鏡で見て、行間を読み取るしかありませんでした。現在の中国は、同じやり方ではいけません。現在の情報爆発の状況では、ひとりでも多くの庶民の声を理解しなければなりません。そのなかのひとつの声だけを聞いていたのではだめなのです。一を見て十を知り、より多くの中国の情報を読み、中国を理解することが必要です。皆さんの中から多くの新世代の中国通が現れることを期待しています。

中国現代史・国際関係問題専門家朱建栄:中国・華東師範大学卒業、1986年来日。学習院大学で博士号取得。東洋女子短期大学助教授等を経て現職。専門分野:アジア国際関係、中国現代史。著書共著『朝鮮半島の今を視る』(2022年1月朝鮮問題研究センター)、『加速する中国 岐路に立つ日本』(2021年8月花伝社)、単著『中国外交―苦難と超克の100年』(PHP研究所、2012年)『中国で尊敬される日本人たち:「井戸を掘った人」のことは忘れない』(中経出版、2010年)『鄧小平は死なず―12億の民はどこへ行くのか』(講談社、1995年)などがある。

今回のインタビュー内容は月刊中国語学習誌『聴く中国語』2023年4月号に掲載されています。さらにチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2023年4月号をご覧ください。

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