中国語語学誌『聴く中国語』は毎月、日本で活躍している中国の有名人や日中友好に貢献している日本人にインタビューをしています。
今回のインタビュー相手は、二胡芸術家の李軍さんです。どのように独特な風格のある「新二胡」の道を歩むことになったのか、お話をうかがってみましょう!
――李軍先生、こんにちは!インタビューできて光栄です。読者の皆さんにご出身やご経歴について、またどのように二胡の道に入ることになったかお話いただけますか?
皆さんこんにちは。私は李軍です。香港から参りました。生まれたのは上海です。我が家は人が多くて、皆が民族楽器を学んでいました。私も自然に両親や兄姉と一緒に民族楽器に触れるようになりました。当時私は二胡を選びました。このように自然に二胡の道に入っていったのです。このような環境の中で学びも習得もとても早かったのです。6歳ぐらいだったでしょうか。1年後には正式な舞台で演奏していました。初めて演奏したのは『賽馬』でした。
――先日東京で行われた追悼レスリー・チャン新二胡演奏会では、二胡で『月亮代表我的心』などの懐メロを演奏されました。二胡で流行曲をアレンジされるようになったきっかけは何だったのでしょうか?
12歳のころかな、(当時は)あらゆる(古典的)二胡作品を学び終わってもう学ぶものがなくなってしまったように感じました。(しかも)伝統的な作品は、その年齢にとってそんなに大きな魅力は感じませんでした。当時中国社会は開放に向かっていましたし、伝統的な作品以外にも香港や台湾の音楽が紹介されており、その多くがそれまで聞いたことのないものでした。あの年代は、比較的政治的色彩のある音楽に偏っていましたよね。自然な音楽を聞いた時に、とても好きだと感じたのです。
伝統音楽でも、バイオリンの作品が(二胡よりも)好きで、バイオリンを学びたかったんです。私の家は貧しかったので、先ほど話しましたが家には8人の兄弟がいました。私の両親は私たち10人を養わなければならず、非常に苦労しました。ですので(バイオリンを学ぶのは)とても無理なことでした。二胡を学んだときでさえ、私は二胡を買ってもらったことはありません。みんな琴を持っていて、その琴をとてもはっきり覚えています。ひとつ4元でした。当時最も高い琴は36元でした。私の4元の琴は本当に普通のものでしたが、音色がとても美しいと思いました。
ですから私は(最初は)二胡でバイオリンの作品を演奏していました。たとえば『梁祝』、弾いてみて、とても気持ちよかったのを覚えています。五声の音調は旋律がそれぞれ違い、感覚も違うので、私はその音楽がとてもゆるやかに感じられて、とても好きでした。その後、当時流行の曲、たとえば『送我一支玫瑰花』や『花児為什麼様紅』なども、少し演奏してみました。
私がポップミュージックを学び始めた段階でのアイドルといえば、テレサ・テンさんです。(彼女の歌を聴いて)音楽とは本来こんなにも美しいものなのだと感じたのです。音楽はこんなにも私たちの生活に近く、陶酔できるものだと感じ、流行の曲が好きになりました。ですから自然と二胡で弾くようになったのです。
やがて本格的に仕事としてポップミュージックを二胡で演奏するようになる最初の経験は、実はマレーシアでのことでした。中央音楽学院で作曲の理論を学んだ後、マレーシアに行ってレコード会社と仕事をしました。レコードプロデューサーとして多くの流行歌手と会い、触れる音楽のジャンルがさらに広くなりました。最も初期の私の二胡(のアルバム)は流行曲からはじまっています。それから少しずつ色々な地域、国、様々なミュージシャンとコラボするようになり、新二胡の創作へと展開していったのです。
――歌いながら二胡を弾くことがお好きですよね、始められたのはいつからでしょうか?
香港で生活していたころに始めました。私は確かに歌うことが好きで、その好きな気持ちは二胡にも負けていません。幼い頃から二胡を始めましたが、どの音楽にも相通じるものがあり、何がよくて何がよくないというものはなく、好きか嫌いか、うまくできるかできないかが最も重要です。香港に来てから、ポップミュージックで活動するのは、割とやりやすかったです。そのおかげで、毎年香港で「李軍新二胡唱奏音楽会」という大型音楽会を開いており、香港最大且つ最もハイエンドな(専門の)コンサートホール「(香港)文化センターコンサートホール」と「香港大会堂コンサートホール」で毎年おこなうようになっていました。すでにひとつのブランドになり、2019年からずっと続けています。
――もし今ポップミュージックを二胡の曲にアレンジするとしたら、90年代の曲を選びますか?それとも新しい曲を選びますか?
どちらも選びます。私は香港で2012年に第1回の音楽会を開催してから毎年行っているので、毎回異なるテーマを選んでいます。最新のテーマもあれば、80年代・90年代の作品もあり、個人にフォーカスしたものもあります。たとえばテレサ・テンさんは私のアイドルですのでテレサ・テンだけのコンサートもありましたし、レスリー・チャンだけのコンサートも行いました。映画やドラマの曲限定の回もありました。まずテーマを設定してから、それに沿った作品を選ぶという順番ですね。
2020年のコロナの1年、1月に海南島芸術フェスティバルで続けて4回の公演を行いましたが、毎回の公演も異なる内容でした。2時間の公演、徹頭徹尾、1曲も重なることはありませんでした。「中国語流行曲の百年」というテーマで行ったのです。『老上海』の年代から始め、2000年代までを、一日をひとまとまりの時代にしました。20年代から40年代を1日でやり、50年代から70年代を2日目にやり、80年代と90年代の黄金期を3日目にやりました。4日目は、2000年以降(のポップミュージック)ですね。様々な年代の中国語の古典的作品を演奏しました。このテーマは大変人気がありました。
もちろん、私の仕事量は大変なもので、バンドの仕事量も大変なものでしたが、バンドは楽譜を見られます、私は見られません。私はメインのパフォーマーですから、そのストレスは大変なものでした。ですが、好きだったから私はやりたかったのです。どんなに時間を使っても(謝:全部で(二胡の演出を)何公演ほど行ったのですか?)100公演余りです。2006年に始めました。ソロ公演は10年余りですね、コロナがなければもっと多かったでしょう。
――マレーシアでは中国の「二胡の英雄」と呼ばれていますね。日本や韓国でも大変人気があります。そこでお伺いしたいのですが、なぜ長期の海外滞在をしてこのような音楽の仕事をされることを選ばれたのでしょうか? またどのようにして中国の伝統的民族楽器や民族音楽を世界に紹介し、各国に受け入れられるようになったのですか?
私の芸術人生の道が様々な国に及んだのは一言で言えば運命に導かれたと言うしかありません。私がはじめて音楽家として世に出たのは、マレーシアでのレコード業界との仕事でした。自分の音楽理念から言うと、二胡でもピアノでもギターでも、楽器は音楽を作る道具ではありますが、音楽そのものではありません。ですから制限を設ける必要はないと思います。これしか演奏できない、あれしか演奏できないと言っていたら縛り過ぎて、自分自身も封じ込めてしまいます。自身の特徴も残しながら、色々な楽器の特徴を残すことは大事ですが、個性の美を発揮すると同時に、演奏している音楽作品のスタイルに合う美と融合させなければなりません。このような基礎の上に、色々試し、良さを追求しているので、公演は非常に好評です。
マレーシアで出した二胡のアルバムは、(当時)マレーシアでの発行数は最先端の大スターのものよりずっと多かったのです。それは奇跡のようなもので、今でも信じられません。もちろん運もあったのでしょうが、加えて私の理念の枠を飛び出したこともあり(現地の中国語と広東語のレコードアルバムの中で)史上最高のレコード販売記録を更新しました。『快楽新二胡』という名前のアルバムで、私のセカンドアルバムでもありました。当時マレーシアでは確かにブームが巻き起こっていました。ホテルやレコードショップ、ショッピングモールなどに行けば、自分のアルバムが流れていて、バサマラ夜市も私の音楽で埋め尽くされ、テレビをつければ、また私の音楽が流れ、車でラジオをつければ、またまた私の音楽が流れました。おおげさに聞こえるかもしれませんが、当時は本当にそうだったのです。当時(1996年)多くの報道がされ、(現地の)最大のメディア『星洲日報』でも、私がマレーシアに二胡ではいまだかつてなかったブームをもたらした、と報道したのです。
(『星洲日報』の評論:時代の流れが生み出した「二胡の英雄」李軍氏はマレーシアで中国語アルバムの販売記録を更新し、現地の華楽の発展をかつてないピークに押し上げた)
注:中国伝統民族音楽は東南アジアでは「華楽」、大陸では「民楽」、台湾では「国楽」、香港では「中楽」と呼ばれる。
――このアルバムの中で最も人気のある曲は何ですか?
(最も人気のある曲は)先ほど話した7歳の時に舞台で演奏した『賽馬』です。私が曲をアレンジしましたが、かなり大胆に、楽しい曲としてアレンジしています。流行の要素を入れて、新たな生命力を添えました。西洋の方が聞いたときに、作品の中に共鳴するものがあれば良いなと思ったのです。純粋に伝統的な音楽だったら、おそらく理解できないでしょう。興味を持ってくれるかもしれないが、1曲か2曲聞くだけで終わり。ですがもし陶酔すれば、2時間聞いても飽きないでしょう。だから融合が必要なのです。時代が異なれば、美に対する感性も異なります。それに、物事への理解も、以前はこのように理解していたが、現在はこのように理解する、ということもあります。もし発展させたいなら、時代に合わせて変わらなければなりません。新しい要素を取り入れて、常にアップデートし、発展していかなければならないのです。
――アレンジされた曲、もしくは創作された曲の中で、最もお気に入りの作品は何ですか?オススメの曲を何曲か教えていただけますか?
はい。実はマレーシアを離れたあとに何枚かアルバムを出しているんです。そちらのほうが比較的好きです。(なぜなら)より多く新しいことを模索したものなので。1枚は『李軍新二胡 世界音楽』で、もう1枚は『当波萨诺瓦遇上了二胡』(ボサノバが二胡に出会うとき)です。ボサノバは、ブラジルの音楽でラテン系ジャズの一種です。私は多くのブラジル人や南米のミュージシャンと知り合い、彼らの音楽スタイルがとても好きだったので、試してみたいと思って、アルバムを作ったのです。おそらく世界でいまのところ、ラテン、ジャズ、ボサノバ、サンバなどのスタイルを持ちながら、二胡を主体とした、唯一のアルバムです。
もう1枚は『李軍新世紀 経典新二胡』です。なぜ「新世紀」なのに「経典」なのか、この二つの言葉は少し矛盾していないでしょうか?「経典」とは、私が中国の最も古典的な作品を選び、「新世紀」という音楽理念で新たにアレンジしたのです。伝統的な作品が新たな生命力を放つのです。たとえば『陽関三畳』『良宵』『燭影揺紅』など、どれも私がとても好きなものです。
また私自身が作った作品――World Musicは「世界音楽」のスタイルです。たとえば『Free in the Sky 自由飛翔』について言えば、私は二胡や二胡に代表される中国の民族楽器は、あまり大きな制約を受けず自由に空に羽ばたくほうがよいと思い、この曲を作りました。峡谷から飛来した鳥のイメージで、多くの流行の要素を取り入れているので、とてもグローバルな作品です。
それから『歓楽二胡頌』。大部分の人は二胡をとても悲しく、悲惨な音楽を演奏する楽器だと思っているでしょう。私はそれを変えたいです。二胡はもっと楽しくていい。だから『歓楽二胡頌』を作ったのです。
もうひとつマレーシアのために書いた曲があります。マレーシアは三大民族が一緒に生活しています。マレーシア系と中華系、そしてインド系です。もちろん他の民族もいますが、主にこの三つの民族です。ですが三つの文化はそれほど融合しておらず、それぞれ独立しています。外から見る人間としては、なぜ彼らの文化が融合しないのか不思議です。そこで私は『南亜情人』という曲を作りました。英語で『Asian Lover』という曲です。三つの民族の文化的・音楽的要素を融合させ、二胡で表現する曲で、これもとても好きなのです。
――多くの外国語を話され、多くの海外の音楽家とお知り合いで、さらに多くの人と文化面で協力して音楽を作られている、天賦の才能でしょうか。
ある程度の才能と、それに情熱があります。好きなことなら疲れることはないでしょう。好きでない仕事のためや生活のためにしていると、全力投球できないでしょう。それができないと、効率も違ってきます。
また多くの原因は、私の転々とする生活からきています。私は方言が7、8種類話せます。私は上海で生まれたので、上海語は私の方言の母語です。本籍が潮汕なので、潮州語も話せます。香港での生活も長いので 広東語も話せますし、東南アジアでの生活も長いから東南アジアのいくつかの言語も話せます。蘇州で大学に行ったので、蘇州にいるときは蘇州語を話していました。蘇州の人の何人かは、いったい蘇州人なのか上海人なのかを疑っている人もいましたよ。当時はうまくしゃべれていましたね。英語もどこでも使うから仕方ありませんね。それほど上手なわけではないですが、簡単な交流ができるくらいはね。ただ日本語ができないことは慚愧に堪えません。今後機会があったら学びたいと思います。
――語学学習が得意でいらっしゃいますね。私たちは語学雑誌なので、熱心に中国語を勉強し、中国文化と中国の音楽を理解したいと願っている読者の皆さんにアドバイスをいただけますか?
読者の皆さんは主に中国文化と中国語に興味があると思います。それなら私と同じです。ひとつの言語を学ぶには、もしその環境にいられるなら何よりですが、(いないなら)自分の興味から取りかかることが大事、覚えるのもたやすくなります。 本書の読者は中国文化や中国語の音に強い興味、情熱を持っていらっしゃるでしょう。興味を持つということは、語学の学習にとって最も有用です。私も機会があれば『聴く中国語』の読者の皆さんと文化交流をしたいですね。皆さんが御健康で、楽しく中国語を学べますように!
今回のインタビュー内容は月刊中国語学習誌『聴く中国語』2023年8月号に掲載されています。さらにチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2023年8月号をご覧ください。
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