心に残る現場

コラム

中国語語学誌『聴く中国語』では中国語学習における大切なポイントをご紹介しています。

今回は日中通訳・翻訳者、中国語講師である七海和子先生が執筆された、「心に残る現場」というテーマのコラムをご紹介します。

執筆者:七海和子先生

日中通訳・翻訳者。中国語講師。自動車・物流・エネルギー・通信・IT・ゲーム関連・医療・文化交流などの通訳多数。1990年から1992年に北京師範大学に留学。中国で業務経験あり。2015年より大手通訳学校の講師を担当。

皆さん、こんにちは。七海和子です。

 通訳の仕事で、時には顔にこそ出さないものの「え~っ!!」とか「ウソじゃないよね???」と心の中で叫んでしまうような内容のものがあるのです。「事実は小説より奇なり」とはこういうことを言うんだ、と全身で実感している真っ最中に、冷静を装って通訳することもしばしば。

 今回は、お話できる中でとても印象に残っている通訳現場のお話です(あまり明るい話ではありません)。

 かなり前のお仕事です。葬儀や火葬場・墓地設計についての中国の研究者団体が日本の研究機関との意見交換のために来日しました。火葬場の設計についてなど、このような機会がなければ、まず接する機会がないので、通訳しながら非常に興味深く聴きました。そのプログラムのひとつにエンバーミング(ご遺体の保存・防腐・殺菌・修復処置)の実技視察がありました。中国ではまだまだ実施例は少ないものの、この団体ではこの技術についても研究しているとのことで、この視察では、ご遺体の具体的な処置方法、例えば血液の抜き方や防腐剤の注入の仕方、死化粧に至るまで、ご遺体を前にした説明がありました。また、損傷したご遺体の修復方法についての写真を見ながらの講義もありました。

読者の中にはここを読んで「えっ」と思われた方もいると思います。でも、通訳をしていると何かスイッチが入ったような状態になって、会議などの現場と変わらずに仕事ができてしまうのです。もちろん、このような通訳は私も初めてなので、とにかく正確に訳すことに集中していて、怖いなどの気持ちの揺れは全くありませんでした。この現場では、このお仕事に携わっている方々のご遺体に対する真摯な態度、ご遺族に対しての思いやりがにじみ出る仕事ぶりが深く心に残っています。

この研究者団体の通訳は1週間ほどの業務だったのですが、この他にも日本の葬儀の仕組みや祭壇の設置の仕方とその意味、日本と中国の墓地設計についての概念、ペットの葬儀、ご遺族の心の回復をサポートする「グリーフケア」についてなど、範囲が多岐に渡りました。この一連の業務が終わったあと、改めて人生や死、残った者の気持ちの整理について考えさせられ、少しですが人生観が変わったように思います。私にとって大変意義のある現場でした。

 

もうひとつは精神的にとてもきつかった現場です。都心からかなり離れた他県の病院での通訳でした。内容は観光で来ていた中国人が事故に遭い、脳死状態となったので、その生命維持装置を外すかどうかの判断を配偶者に求めるというものです。配偶者は中国にいたので、日本に着いた翌日にその病院で合流しました。私は患者の状態については、事前に簡単に説明されていましたが、通訳する具体的な内容については知らされていませんでした。通訳は病院の会議室で行われ、生命維持装置をどうするか、生命維持装置を外した場合と外さない場合での患者本人の中国への移動方法、そして保険金についてなどが話し合われました。配偶者は日本に着いて間もないうえに、事故の説明はされたものの、混乱の中できちんと理解できたのかも、その表情からはうかがい知ることはできません。そんな状態で、いきなり厳しい内容で厳しい判断をしなければならないので、通訳の際、言葉選びにはとても気を使いました

 個人的には、身内にとっては非常につらい内容であるものの、会議の内容はものすごくドライだったことに心が痛くなったことを痛烈に覚えています。病院や保険会社の立場も、配偶者の方の心情も理解はできるので、とにかく正確にかつ言葉を選んで慎重に訳しました。「人生何が起こるかわからない」とはよく聞く言葉ですが、これが現実として目の前で展開されたのです。この仕事を終えて帰路についたとき、なんとも言えない感情が襲ってきて心身ともにぐったりしたあの感覚は今でもはっきりと思い出せます。

  今回お話したものは非常にレアなケースのお仕事です。ただ、通訳者はどのような時にも自分の感情とは切り離して、事実をありのままに受け入れ、冷静に訳さなければいけません。その内容が明るいものであれ、つらいものであれ、それを私が的確に訳すことで、誰かの助けになるのだとすれば、通訳者冥利に尽きるというものです。通訳という仕事を通じて、自分の知らない世界に触れることができること、誰かのお役にたてること、こういうことがあるので、通訳という仕事に尽きない魅力を感じるのだと思います。

今回紹介した七海先生のコラムは『聴く中国語』2023年7月号に掲載しております。

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