中国語語学誌『聴く中国語』では日中異文化理解をテーマにしたコラムを連載しています。
今回は日本中国語検定協会理事長の内田慶一先生が執筆されたコラム、うっちーの中国語四方山話−異文化理解の観点から③−“吉尼奥利”って何?をご紹介します。
もう20年も前になりますが、在外研究で1年間アメリカのボストンに住んでいた時があります。ホームステイ先から毎日大学までバスを利用していましたが、そのバスでよく一人の中国人のおばあちゃんと一緒になりました。ある時、私の目の前に座ったおばあちゃんがノートに何か書き込んでいます。何かなとのぞき込んでみますと、そこには“吉尼奥利”という漢字が書かれ、その横には“January”という英語が書いてあります。この年で異国の言葉を学んで生きていくのは大変だろうなと思うと同時に、なるほど中国の人は今もこうして漢字で外国語の発音を表しているのだなと思いました。「今も」というのは、19世紀後半から中国人が英語を学び始めた時もそれ以前のラテン語系の言葉を学ぶ時もそうだったからです。
例えば清末の交易のために作られた簡易な英語語彙集(『紅毛通用番話』『紅毛番話貿易須知』『紅毛買売通用鬼話』など。「紅毛」は西洋人、「番話」「鬼話」とは外国語のこと)には次のようにあります。
一 温、二 都、三 地理、二十 敦地、二十一 敦地温、老婆 威父・・
英語の学習だけでなく日本語の学習でも同様でした。例えば、清末の日本語教科書の『東語入門』などでは“请问台甫(お名前は)”に対する日本語を「阿那他诺哑那麦以那泥」と表していますし、民国の初めの『中国口韻日本話本』といった本では,次のようなものがあります。さて分かりますか?
一個 十刀子、二個 附達子、三個 泥子、四個 姚子、
切麵 五動、洋火 麻汁、烟捲 大八狗、襪子 大必、條箒 好几、
疼 一代、吃飯 美細、看看 米六、餓 哈拉一代
実は日本でも江戸時代や明治の初めはやはりローマ字でなくてカタカナを使っていました。
江戸時代には2度の中国語ブームがありましたが、その一つは元禄の頃で、江戸城では赤穂浪士の切腹を決定したと言われる荻生徂徠という漢学者を中心に中国からのお坊さんとの会話で中国語が話され、中国語の学習会も開かれていました。これは宇治の万福寺の黄檗宗との関連です。もう一つは長崎の唐通事による中国語学習です。いずれも、写真(『唐話纂要』という岡島冠山という人によって作られた唐通事のための中国語教科書)のように発音はカタカナで行われていました。ピンインは戦後のことですね。
ところで中国では外国人との交流の際に、上海や広東を中心に「けったいな英語」が使われたことがあります。いわゆる「ピジン・イングリッシュ」ですが、上海では特に今の延安東路が昔は「洋涇浜」という河で、それを境に中国人と外国人が住み分けられており、そこでブロークンな英語が話されました。その河の名前を取って“洋涇浜英語”と言います。
“康姆”“谷”“也司”“发茶” “卖茶”などはその“洋泾浜英语”の例です。それぞれ、「come」「go」「yes」「father」「mother」ということになります。“拉司卡”は「last car」つまり最終電車、最終バスという意味です。では、“拉三卡”はどういう意味でしょうか?ついでに、“生发油买来卖去”も。これは次号までの宿題としておきましょう。
この他、上海では以前、日本語由来のピジンも存在しました。“伊拉写意”、つまり「いらっしゃい」を上海音の漢字に当てたものです。“伊拉”は上海語で“他们”の意、“写意”は“舒服”で、「彼等は快適な生活しているな」という意味になりますが、その後ろの意味として“阿拉辛苦”(「私たちはしんどい暮らしをしている」)が隠されている言葉です。
一種の言葉遊びですが、これも漢字だから出来ることですね。
今回はここまで。
今回紹介したコラムは『聴く中国語』2024年6月号に掲載しております。
コメント