『聴く中国語』2023年4月号より、日本語教師・金子広幸さんのコラム「日本語教師から見た中国語」を連載しています。
今回はのテーマは「「の」の不思議と、短いのがいい!と思った日本語」です。
もともとは長かった日本語
日本語はその音韻の単純さから、名詞が長くなる傾向がありました。それを「の」でつなぐので、例えば「やまとととひももそひめのみこと」とか「たしらかのすめらひめのみこと」というように、古代の神様や皇族の名前は長いのです。
時代はくだって、日本語に中国語から語彙が入って来ましたが、それを取り入れた理由の1つに、言葉の短さがあると思います。
社会が複雑化すると、長かった表現も単純化、伝統として持っていたものも省略されて、短く表されるようになるのは、人類共通の傾向です。
やまと言葉では長いものも、音読みを使った漢字字音語で表すと短くすることができます。「もうしこみ」ではなく「しんせい」とか、「だんだんうまくなる」ではなく「しんぽ」とか、です。
以前教師仲間たちと、「音読みをやめて訓読みだけにしたらどんな言い方になるかな?」と遊んだことがありました。補聴器は「聴き補いの器(ききおぎないのうつわ)」となるかな?などと楽しく話しました。
お手元の辞書で「こうてい」と読む漢字の言葉がいくつあるか数えてみてください。多いでしょう?発音も同じですから、区別は大変なはずなのに、短く言えることの方を優先したようなのです。「校庭」や「高低」を「まなびやのにわ」や「たかいひくい」と言っていたら、話が長くなってしまいますからね。
このように、同音異義語が多くなってしまったのですが、無理をしても中国語の字音語を多く取り入れようとしたのは、それなりの意味があると考えました。
そして何より、名詞と名詞をつなぐ時、そのまま並べても良いという性質が中国語にあったことも大きく影響していると思います。
「の」を多用する日本語
一方、名詞と名詞は「の」でつなぐ。これは日本語がもともと持っていたやまと言葉の性質でした。だから何でも「の」でつなぎます。
「百人一首」をご覧ください。「の」の登場率の高いこと!
「あしびきの山鳥の尾の…」とか「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の…」 とか 「の」の連続です!
その和歌を詠んだ人たちも、苗字と名前は「の」でつながっています。源頼朝、平清盛もそうですね(それぞれ、みなもと「の」よりとも、たいら「の」きよもり)。しかもどこにも書いていないのに「柿本人麻呂」を「かきのもとのひとまろ」などと読みます。東京の「山手線(やまのてせん)」とその線上の駅「高田馬場(たかだのばば)」も、書いていないのに「の」が入っているのです。
「の」は不思議です。日本人の頭の中には「の」がいっぱい入っているんですね。
ということで、言葉のつなぎ方を双方の言語で比べてみることにしましょう。
「私の祖母の家の庭の柿の木」
この自然な日本語の中には「の」が5つもあります。
これを中国語で言い換えると
“我奶奶家院子里的柿子树”
です。なんと!「的」は1回しか出て来ません!
“我的奶奶的家的院子的里面的柿子的树”
と、いう中国人は絶対いないでしょう。
ここからが問題です!この「の」にあたる言葉は、そのつなぎ方によって表現するものが少しずつ違います。
“日本大学”はこの学校の固有名称ですが、“日本的大学”は「日本の大学」ですから、この辺は日本語と構造が同じですね。
ここから先、学習者には拡大解釈が起こります。
“很甜的水果”となれば「甘い「の」果物」と言いたくなりますよね。
“我昨天在银座买的包”となれば「私きのう銀座で買った「の」カバン」と言いたくなりますね。
多くの日本語学習者たちがつまずく最初の関門です。
中国語の「的」は名詞をつなげる役割もあれば、形容詞の語尾や連帯修飾節の句の最後の部分として使われる場合もあって、ここで大きな誤解が生じるというわけです。
自分の第一言語の構造と、今学んでいる言語の構造を比べて、拡大解釈することを「母語の干渉」と言っています。またその結果生まれてしまう、意味は通じるけれども正しくないものを「中間言語」と言っています。
同じアジアの隣同士の言語で、古くから交流があった日本語と中国語であったからこそ、起きやすい問題がここにはあるのです。
本コラムは、月刊中国語学習誌『聴く中国語』2023年11月号に掲載されています。さらにチェックしてみたい方は、ぜひ『聴く中国語』2023年11月号をご覧ください。
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