中国語語学誌『聴く中国語』では中国語学習における大切なポイントをご紹介しています。
今回は日中通訳・翻訳者、中国語講師である七海和子先生が執筆された、「パズルのような映画。そしてごめんね、王一博!」というテーマのコラムをご紹介します。
執筆者:七海和子先生
日中通訳・翻訳者。中国語講師。自動車・物流・エネルギー・通信・IT・ゲーム関連・医療・文化交流などの通訳多数。1990年から1992年に北京師範大学に留学。中国で業務経験あり。2015年より大手通訳学校の講師を担当。
皆さん、こんにちは。七海和子です。
『聴く中国語』の4月号や5月号の裏表紙に大きく掲載されていた映画の広告、『無名』。梁朝偉と王一博の二人がアップになったポスターと「信じるか、裏切るか」というキャッチコピーが恰好よかったですね。
観てきました!この映画を!今回はそのお話を。
俳優たちの演技の巧みさや、あまりにリアルな1940年代前半の上海の空気感がすばらしく、歴史的背景の知識がなくても楽しめる映画です。が、これから観ようと思う方は、1931年に起こった満州事変や、関東軍参謀として満州事変を主導した石原莞爾とその主張(これがわかると、日本軍スパイトップの渡部の意図するところが理解しやすい)、日中戦争で日本が中国の南京を占領していたことと中国国民党ナンバー2であった汪兆銘(=汪精衛)との関係なんかをちょっと頭に入れておくと、途中「???」というのがかなり減らせると思います。
はっきり言って簡単な映画ではありません。時系列が交錯するトリッキーな手法もそうですし、何気ないシーンでも何かの伏線となっているので、細部も見逃せません。ガラスから差し込む光を背に、少し思い悩むように座っている姿、シャツのそでについた小さな血の染み、食卓にのぼるひとつの料理、交わされる会話、それらが「あ、だから!」とつながっていくのです。まるでパズルのようなので、観ている私たちもそのピースを拾っていかなければなりません。最後の最後にピースが揃うわけですが、その時に今までのすべてが腑に落ちます。
まず、皆さんに注目していただきたいのは何主任(梁朝偉)のセリフです。例えば、何主任が自主をするよう尋問しているシーン。何主任は中華民国・汪兆銘政権の国民党工作員です。後ろ姿しか映っていないので、誰を尋問しているのかはわかりません。尋問室から同席者が部屋を出ていくと、先ほどまで“自首吧”と言っていた何主任はこう言います。“时局天天都会在变,谁也说不准。不妨一起再等一下”。こんなシーンもあります。上海に駐在する日本軍スパイのトップ、渡部(森博之)や国民党上司の唐(この人は何主任のいとこ)と日本料理店で戦局についての情報交換をする場面があります。「いとこさんはよ、いつもそんなに食わないのか」と渡部に問われた何主任はこう返します。“我吃不惯”。何主任の言葉はその裏に別の意味が潜んでいます。
映画全体は終盤の何主任と叶工作員(王一博)のアクションシーン以外淡々と進んでいきます。しかし、この抑制された静かな場面の中に様々な「何か」が散りばめられていて、それが私たちに多くのことを訴えてくるのです。
映画と関係ないのですが、この映画には上海語、普通語、広東語、日本語が出てきます。この映画で渡部演ずる森博之さんのインタビュー記事で知ったのですが、王一博は急に監督から日本語でやろうと提案されたそうです。それも日本語でセリフを話すシーンを撮る3日ほど前に(監督、鬼か!)。さすがに3日ではきつかったそうですが、1週間で仕上げてきたというのを読んで驚きました。ただ暗記するだけではなく、「演技」をしなければならないものを1週間で!そういえば、王一博は河南省洛陽出身とのことですが、上海語も流暢に話し、終盤では広東語も話していました。セリフを覚えてアクションも練習して、語学も特訓ですか!香港人である梁朝偉が流暢に普通語を操っていたり(これもかなり練習したそうです)、周迅も終盤で広東語を話していたり、演者の方々の努力を考えると頭が下がりますし、私の語学へのモチベーションは上がりました。自分を鼓舞するうえでもよい映画です(笑)。
見どころが多すぎるのですが、最後にもう少し注目ポイントを。叶工作員と一緒に任務を遂行する王隊長の家で父親の誕生日を祝うテーブルに「醉虾」が出てきます。これ、最後にあるつながりを教えてくれる鍵となるので、覚えておいてください。あと、渡部が叶に「お前も(満州に)連れて行くつもりだ」と言い、叶に「関東軍兵力配備要図」を見せるシーンがありますが、その時の叶の表情にご注目。
今まで王一博のことを、チャラそうだけどなんか顔が地味な人(王一博ファンの皆さん、本当にごめんなさい!)と思っていましたが、この映画で彼への見方が一変しました。演技もアクションも本当に素晴らしい!演技だけではなく佇まい自体が何とも言えず、髪を七三になでつけ、スリーピーススーツを着こなし、静かな表情をたたえた王一博は、1940年代を生きる諜報員叶、まさにその人でした。
すっかりファンになったので、彼主演の『ボーン・トゥ・フライ』も絶対観ようと心に誓いました!『無名』も歴史を頭に入れたうえでもう一度観たいと思っています。まだまだ気づいていないピースがありそうなので。皆さんも是非ご覧ください!
今回紹介した七海先生のコラムは『聴く中国語』2024年9月号に掲載しております。
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