バイリンガル小李老師の日中ことば日記・字=文?

コラム

大家好!皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

忙しい毎日の中、本誌での中国語学習が皆さんにとって、ちょっとしたリフレッシュの時間になれたら幸いです。このコラムも、学習に役たつ様々な情報を、小噺を交えて楽しく紹介していきたいと思います(ちょっと、ハードルをあげすぎちゃいました。汗)。

1984年天津生まれ。14歳で来日。日本の中学、高校を卒業後、慶應義塾大学、同大学院へ進み、中国文学専攻で学ぶ。専門は中国語学、認知言語学。現在は中国語の文法に関する研究を行う傍ら、関東圏の大学で中国語を教える。自身が十代の頃に日本語という大きな外国語の「壁」にぶち当たった経験から、ことばの意味や外国語習得に強い関心をもつようになる。趣味はドラマ鑑賞、外国語学習。これまで、日本語や英語以外に、韓国語、フランス語、ドイツ語の学習歴をもつ。近年、言語学に関する書物を読みながら、生涯続けていける、楽しい外国語の学び方を日々模索中。単著に『勉強するほど面白くなる はじめての中国語』(2023年 新星出版社)、共著に『認知言語学を拓く』(2019年 くろしお出版)などがある。

 さて、前回は中国語の「字zì」と日本語の「字(じ)」の違いについて書きました。「字zì」は生活の中で、漢字のみを指すことが多く、漢字以外の文字は想起されにくいというお話をしました。実は、「字zì」の意味は「漢字」だけにとどまりません。今回はもう少し、「字zì」を用いた他のフレーズを見てみましょう。

まず、生活の中でよく出会う「字zì」のことばとして、以下のような2語があります。

「漢字の発音がはっきりしない(吐不清)」ということで、「滑舌が悪い」ことを表し、また「漢字の発音が正確だ(正腔圆)」ということで、台詞回しが上手であることを指しています。日本語でいうところの「滑舌」や「台詞回し」が、「字zì」となっていることが少し不思議ですね。  

人間が発することばは通常、一定の長さをもった音の連続となっており、聴き手はその音の連続を一字一句区切りながら聴いているというよりは、フレーズや文といったまとまりで聴解しているはずです。例えば、「ありがとう!」と言われ、これを「あ・り・が・と・う」のように一字一句に理解する方はいません。これじゃ、埒があかないからです。

昔、東京オリンピック招致のときに流行った「お・も・て・な・し」というフレーズは一字一句でしたが(笑)、これは人間の自然な発話というより、パフォーマンスです。話はそれましたが、要は上の二つの表現からは、中国人はいつも、相手のことばを一字一句、一言も漏らさずに、丁寧に聴いているという印象を受けます。しかし、そうでしょうか。自分なんかはあまり人の話を聞いていないので、少し違和感があります。実態を反映していないのではないでしょうか。

こんなふうにくよくよ考えていると、ある点に気づいたんです!

「滑舌悪い」という意味の「吐不清」、「台詞回しが上手」である「正腔圆」はどちらも、日常会話のおしゃべりを想定していません。前者は公の場でのスピーチや発言、講演などで、話し手の発言が聞き取りにくいときに使います。後者は、伝統芸能(特に歌を含むもの)において俳優の声を褒めるときに使うことばです。いずれも、丁寧に、意識して聴くことが必要で、かつ一旦紙に書かれた原稿や台本を抑揚つけて読み上げる(歌い上げる)、という特徴をもっています。この2語が使われる場面に気づけば、「字zì」で「ことば、台詞の発音」を指すことも腑におちますね。さて、次の表現はいかがでしょうか。

「字zì」が「文章、ことば」まで指すという事実は、日本語の「字(じ)」の意味からは少したどりづらいかもしれません。しかし、よく考えてみると、実は日本語にも「で文を指す」ことがあります。気づきましたか。

5の、「文字通りの意味」がこれに当たります。「文字通りの意味」は、ことばや文章から読み取れる直接的で、「素直」な意味を指し、「言外の意味」や「ことばの裏の意味」ではないということです。なんですが、「文字通りの意味」だと言っているのは個別の「文字」の意味ではなく、文字の連なりからなる「文章そのもの」の意味です。現に、「文字通りの意味」を「ことば通りの意味」に言い換えることができます。ゆえに、「文字通り」における「文字」が「文、ことば」の意味へとシフトしているのです。

興味深いのは、「文字通りの意味」に対して、「文字=文」だからといって、「文通りの意味」や「文章通りの意味」は変な気がします。中国語でも、「面上的意思」「里行间」とはいえますが、「面上的意思」「里行间」はあまり聴いたことがありません(中国語では「文、センテンス」のことを「句子jùzi」といいます)。なぜでしょうか。ことばや文章の意味はすべて、「字zì」の意味によって決定され、どんなに長い文であっても、全体の意味は結局、単体の「字zì」の意味に収縮されていく、という発想なのかもしれません。

「それはそうだ、確かに!」と思いになるかもしれませんが、人間のことばは、実は「1+1=2」のような単純なものではないようです。ある単語と別の単語を足したら意味がわかるという例はむしろ少なく、単語と単語の意味や文法規則がわかっていても、全体の意味を産出できないパターンの方が多いといえます。例えば、上の1の「吐字不清」はいかがですか。「吐=はく」、「字=漢字」、「不清=はっきりしない」がわかるからといって、この語は「スピーチなどの公の発言で、発言者が滑舌悪く、ことばが聞き取りにくい」を意味していることがわかりましたか(笑)。何となくわかっていても、使われる文脈や背景までは難しいですね。

ついでにいうと、英語にも「字zì=文」に似た発想はありますね。wordという語は本来「単語」ですが、単語の意味よりも「ことば」自体を指すことが多い気がします。例えば、Can I have a word with you?(ちょっと話があるんですが)やhave words with him(彼とちょっとした言い争いをする)などです(a wordかwordsかで意味がまるっきり変わるのが面白いですね)。「字zì」やwordがそのまま「ことば」自体を指すという現象は、どうやら普遍的なもので、人間がことばをどうとらえるかを垣間見ることができそうで、さらに深掘りすべき問題だといえます。

本コラムは『聴く中国語』2024年6月号に掲載しております。

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